文江は、目を覚《さ》ますと、枕《まくら》もとの時計を手に取った。——十時だ。
「もう十時。——ね、起きようよ」
と、文江は、布《ふ》団《とん》の中の、草永を突《つ》っついた。
「え?——ああ、もう朝か」
草永は大《おお》欠伸《あくび》をしながら、起き上った。
「たっぷり眠《ねむ》ったでしょ」
「そうでもないよ。運動不足だ」
「ゆうべ、あれだけ運動しといて?」
「まだ足りない。朝のトレーニングに付き合わないか?」
草永が、文江の上に体をずらして行って、キスしながら言った。
「こういうトレーニングなら付き合ってもいいわ」
文江がいたずらっぽく笑《わら》って、草永を抱《だ》き寄《よ》せた。それから、そっと草永の耳もとへ、
「見られてるわ……」
と囁《ささや》いた。
「また、うめさんかい? 構《かまい》やしないさ」
「母よ」
草永があわてて飛び起きた。
公江がニコニコしながら障《しよう》子《じ》を開けて、
「お忙《いそが》しいところをごめんなさいね」
と言った。
「お、おはようございます」
「——お母さん、何か用なの?」
と、文江はのんびりと起き出して、「出かける仕《し》度《たく》?」
「そうよ。あなた方だけに任《まか》せておくと、いつまでたっても進《しん》展《てん》しませんからね」
「ご出《しゆつ》馬《ば》というわけですね」
草永は微《ほほ》笑《え》んで、「これは楽しみだな」
「ともかく、最初は金子さんの奥《おく》さんに会ってきましょう。お昼前に伺《うかが》うと約《やく》束《そく》してあるから、一《いつ》緒《しよ》に来るのなら、早く朝ご飯を食べてちょうだい」
公江が行ってしまうと、文江は呆《あき》れ顔で、
「母ったら……ミス・マープルにでもなったつもりなのかしら?」
「いいじゃないか。なかなか良く似《に》合《あ》うぜ、お母さん」
「私の母だものね」
と、文江は言った。
「正《まさ》に同感だな」
「何よ!」
文江は、脱《ぬ》いだパジャマを草永の頭へ投げつけた。
——手早く朝食を採《と》り——と思ったのだが、そこは、うめのプライドの問題もあって、適《てき》当《とう》に、
「さすがに旨《うま》い!」
などと言いながら食べ終える。
やっと外へ出たときは、十一時半になってしまっていた。
「私の車に乗って行きましょ」
と公江が言った。
「お母さん、いつ免《めん》許《きよ》取ったの?」
と、文江が信じられない面《おも》持《も》ち。
「三年くらい前かね。何しろヒマで、することもないじゃないの。——それに白木さんが口をきいてくれて、ろくに習わないで取っちゃったのよ」
ひどい話だ。いや、その話よりも車の方はもっとひどかった。
「お父《とう》さんが昔《むかし》使ってたのよ。こんな田舎《いなか》道《みち》、新車を乗り回しても、面《おも》白《しろ》くもなんともないからね」
もはや文江や草永の世代では型名も定かではないポンコツであった。
「——僕《ぼく》が運転しましょうか」
と、草永は恐《おそ》る恐る申し出た。
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。任《まか》せて。それにこの車、ちょっとクセがあるの」
と、公江は言った。
「時々ブレーキが効《き》かなくなるんじゃないでしょうね」
「あら、良く分ったわね」
公江がニッコリと笑《わら》った。
車が、まるでゴール寸《すん》前《ぜん》のマラソンランナーの如《ごと》き喘《あえ》ぎを洩《も》らしながら走り出すと、文江は、そっと低い声で草永に言った。
「ミス・マープルは免《めん》許《きよ》持ってたっけ?」
「——まあ、常石の奥《おく》様《さま》」
金子駅長の未《み》亡《ぼう》人《じん》が、ていねいに頭を下げた。
「お邪《じや》魔《ま》しちゃってごめんなさい」
「とんでもありません」
と、金子正江は言った。「——主人が、あんなことになって、本当にどうしていいものやら、途《と》方《ほう》にくれておりますの」
「そうでしょうね」
と公江が肯《うなず》く。
「それに、警《けい》察《さつ》の方のお話では、何だか主人は殺されたのかもしれないということで……。でも、信じられませんわ。主人は人に恨《うら》まれるようなことはなかったんですのに」
「誰《だれ》が犯《はん》人《にん》か見当がつかないということなんですね」
「もうまるきり……。何だか私が疑《うたが》われてるようでもあるんですの」
「あなたは、そんなことをする人じゃないでしょ」
「みんながそう思ってくれるとありがたいんですけど」
と、正江は言った。
公江が黙《だま》って肯《うなず》く。——そして、しばらく話が途《と》切《ぎ》れた。
文江は、チラリと草永の方を見た。このまま帰るんじゃ、何の収《しゆう》穫《かく》もない。ミス・マープルまではとてもいかないじゃないの、というわけだ。
「でも、金子さん」
と、文江は言った。「ご主人が、あの坂東さんの家を持っておられたのはご存《ぞん》知《じ》なんでしょう?」
「ええ、それは——」
と、正江は少し曖《あい》昧《まい》な調子で言った。
「まあ私に任《まか》せて」
と公江は文江を抑《おさ》えて、「——ねえ、正江さん」
と、ちょっと改まった調子で言った。
「はい」
「あなたは、今、ご主人を殺そうと思う人間なんか思い当らないと言ったわね」
「ええ」
「でも、私は、あなたのご主人を殺したいくらい憎《にく》んでいた人を、少なくとも五人は知っていますよ」
——再《ふたた》び沈《ちん》黙《もく》がやって来た。
しかし、それは、さっきの空白とは違《ちが》って、重く、張《は》りつめた沈黙であった。
「奥《おく》様《さま》——」
と、言いかけたものの、金子正江は、言葉が続かない様子であった。
「金子さんは、一種の高《こう》利《り》貸《がし》をしていたのね。もちろん表向きは、温《おん》厚《こう》で実直な人だったけど……。いえ、きっと駅長さんとしては、至《いた》って真《ま》面《じ》目《め》な人だったでしょうね。でも、裏《うら》では田《でん》村や、隣《となり》の町の人にもお金を高い利子で貸《か》しつけていた。払《はら》えなければ、容《よう》赦《しや》なく家や土地を差し押《おさ》えたと聞いているわ。それで町や村を出て行かなくてはならなかった人も、一人や二人じゃないはずね」
文江は母の話に、ただ唖《あ》然《ぜん》とするばかりであった。
あの金子駅長が!——冷《れい》酷《こく》な高利貸だったなんて!
未《み》亡《ぼう》人《じん》は、頭を垂《た》れて、
「奥《おく》様《さま》は何でもご存《ぞん》知《じ》でいらっしゃいます」
と言った。
「——それでも、犯《はん》人《にん》の心当りはないの?」
「さあ……。あれは火事騒《さわ》ぎの夜でした。それに、このところは、主人も体の具合のせいもあって、金《かね》貸《か》し業は避《さ》けていたはずでございますし……」
「たとえば、まだお金の催《さい》促《そく》をされて、切《せつ》羽《ぱ》詰《つま》っていたような人はいないの?」
「それは……私はよく分りません。何もかも主人が一人でやっていたことですから」
文江は、その未《み》亡《ぼう》人《じん》の言葉に、ふと責《せき》任《にん》逃《のが》れをしようとする気配を感じた。——夫のしていたことを、この人が知らないわけはない。
「奥さん」
と文江は言った。「その貸した先や、返《へん》済《さい》の記《き》録《ろく》はないんですか? 帳《ちよう》簿《ぼ》のようなものは」
「さあ、それが……」
と、正江は困《こん》惑《わく》顔《がお》で、「主人が亡《な》くなりまして、いちど捜《さが》してみたのですけれど、見付かりませんでした」
「そう」
と、公江が肯《うなず》いた。「——どうも、いやな話でごめんなさいね」
「いいえ、とんでもない」
あくまで、未亡人は丁《てい》重《ちよう》な応《おう》対《たい》を変えなかった……。
「びっくりしたわ!」
と文江が言った。「——あの人の良さそうな駅長さんが。信じられないくらいよ」
文江と草永、それに公江の三人は、駅の方へ歩くことにした。
よく晴れて風もない、暖《あたた》かな日だった。
「人間には表と裏《うら》があるものよ」
と、公江は言った。
「そりゃ分ってるけど。——でも、金子さんの金《かね》貸《か》し業と、今度の事《じ》件《けん》とどう結びつくわけ?」
「それは考えてみれば分るじゃないか」
と草永が言った。「あの銀行強《ごう》盗《とう》さ。つまり——」
「言わないで!」
と、文江が遮《さえぎ》る。「分ったわ。つまり、金子さんから金を返せと迫《せま》られて、追いつめられた誰《だれ》かがやったのね」
「そう考えていいんじゃないかな」
「すると、ますます、金を貸《か》した先が知りたいわね。——お母さんは知ってるんでしょう?」
「ええ、何人かはね」
「誰《だれ》なの?」
公江は、ちょっと微《ほほ》笑《え》んだ。
「説明は最後よ」
と言った。
「お母さんったら! ずるいわよ」
「ただね、あの奥《おく》さんは、なかなかの人だってことは言っとかないとね」
「未《み》亡《ぼう》人《じん》ですか?」
「そうよ。あの人は、何も知らなかったと言ってるけど」
「それは嘘《うそ》ね。私もそう思ったわ」
「それどころか」
と公江は言った。「私の見たところでは、ご主人よりむしろ、奥《おく》さんの方が熱心だったんじゃないかしら。たぶん奥さんがご主人にやらせていた、っていうのが真相だと思うわ」
「そこまで?」
「もうご主人が亡《な》くなってる以上、真実は分らないけどね。金子さんは苦しんでいたんだと思うのよ」
文江も、何となく、〈高《こう》利《り》貸《がし》〉よりは〈悩《なや》める男〉のイメージの方が、金子にはぴったり来る、という気がした。
「——どこへ行くの?」
と、文江は訊《き》いた。「このまま行くと駅じゃないの」
「そうよ。でも、駅に行くわけじゃないの」
「それじゃ、どこへ?」
「庄司さんの家よ」
「鉄男君のところ?」
「母親の方に用があるの」
「へえ」
と文江は言った。
あまり色々と質《しつ》問《もん》するのも、しゃくなので、文江は黙《だま》って歩き続けた。
「鉄の男か」
と、草永がふっと呟《つぶや》くように言った。
「え?」
「いや、今思いついたんだ。あの駅員、鉄男君っていうんだろ?」
「ええ、そうよ。それがどうしたの?」
「いや、父親が分らないって話だったけど……」
「あ、そうか!」
文江が手を打った。「——金子さんが父親だったのね!」
「鉄道の〈鉄〉をとったんじゃないかな。それに、あの家へ年中来ていたというし。——すぐ気が付いても良かったな」
「お母さんは知ってたんでしょ」
と、文江が言った。
「もちろんよ。何十年もこの村にいるんですからね。それぐらいのこと、分らないはずがないでしょ」
もう! ずるいんだから、このミス・マープルは!
手がかりを隠《かく》しておくのはフェアじゃない、と文《もん》句《く》を言ったところで、どうにもならないのだ。
「その話をしに行くの?」
「違《ちが》うわよ。私に任《まか》せておきなさい」
と、公江は、自信たっぷりの、威《い》厳《げん》のある姿《すがた》で歩いて行く。
つまりは、いつもながらの様子ということである。
「まあ奥《おく》様《さま》……」
と、鉄男の母は、恐《きよう》縮《しゆく》の様子である。
「実は金子さんのことで、訊《き》きたいことがあるの」
「駅長さんのことですか?」
「金子さんは亡《な》くなる前に、あなたに何か預《あず》けなかった?」
「預ける……。どんな物を、ですか?」
「何でもいいの。ともかく、あなたへ渡《わた》して行った物はない?」
「さあ……」
と、首をかしげて、しばらく考え込《こ》んでいたが、
「——思い当りませんね」
「そう」
公江は、ちょっと当て外れのようだった。
「お母さん、どういうことなの?」
文江が訊《き》いたが、公江の方は答えず、
「——金子さんが殺されたのかもしれないって話は聞いてるわね」
と言った。
「はい。恐《おそ》ろしいことです」
「金子さんは、そんな話をしたことはなかった?」
「殺される、ということをですか?」
「そう、誰《だれ》かに狙《ねら》われている、とか」
「特《とく》別《べつ》何も……。ただ、金《かね》貸《か》しのせいで、みんなに口をきいてもらえないと嘆《なげ》いておいででした」
「やっていたのは奥《おく》さんなんでしょ?」
「もちろんです!」
鉄男の母の口《く》調《ちよう》に、初めて強い感《かん》情《じよう》がこもった。
「金子さんがそう言ったの?」
「はい。いつもぼやいておいででした。——俺《おれ》は別《べつ》に大金も名《めい》誉《よ》も欲《ほ》しくないのに、女《によう》房《ぼう》が欲しがってたまらないんだ、って……」
「最近、その件《けん》で、何かこじれていたようなことはなかった?」
「最近ですか?——気付きませんでしたけど」
「そう。——残《ざん》念《ねん》だわ。金子さんが心の中を打ちあける所があるとすれば、ここだと思って来たのよ」
「それは間《ま》違《ちが》いありません」
と、鉄男の母は肯《うなず》いて、「もう、最近の話といえば——鉄男のことばかりでした」
と、チラリと文江たちの方を見る。
「いいのよ。娘《むすめ》も知ってるわ」
「そうでしたか……」
文江は少し前へ出て、
「鉄男君自身はどうなのかしら」
と言った。
「父親のことですか? 特《とく》に何とも言っていませんけど、やっぱり、薄《うす》々《うす》は分っているらしくて」
「そうでしょうね」
「でも実《じつ》際《さい》に、父《ヽ》親《ヽ》同《ヽ》然《ヽ》に、仕事を仕《し》込《こ》まれましたでしょう。やっぱり慕《した》っているんですよね」
「立《りつ》派《ぱ》な将《しよう》来《らい》の駅長さんね」
「ありがとうございます」
と、鉄男の母は頭を下げた。「駅長さんは、あの子が鉄道の仕事を継《つ》いでくれるのを、願っていたんですね」
——噂《うわさ》をすれば何とか、で、ちょうど、鉄男が帰って来た。
「母さん、昼飯!」
と怒《ど》鳴《な》って上って来る。
そして中を覗《のぞ》き込《こ》むと、びっくりして、
「あ——すみません」
あわてて頭を下げた。
「いいのよ。仕事を続けて」
「昼休みです。大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》ですよ」
鉄男は帽《ぼう》子《し》をとって、傍《かたわら》へ置いた。
「立《りつ》派《ぱ》な帽子ね」
と、公江が言った。
「ええ! これ、駅長さんにもらったんですよ」
「まあ。金子さんに?」
「そうなんだ、母さん」
「そんなこと言わなかったじゃないの」
「だって、亡《な》くなる前の日だよ。亡くなってからじゃ、みんな忙《いそが》しいんだ」
「ねえ」
と公江が言った。「その帽《ぼう》子《し》を見せて」
「これですか?」
と、鉄男が不思議そうに言った。
公江は鉄男から帽《ぼう》子《し》を受け取ると、手に取って眺《なが》めていた。
「お母さん、何をしてるの?」
と、文江が不思議そうに言った。
「これだけが、金子さんの形《かた》見《み》ならね、もしかしたら、この中に……」
公江は、帽子のヘリに沿《そ》って、指を這《は》わせた。「——何か詰《つ》めてあるようね」
「ええ」
と鉄男が肯《うなず》いた。「ちょっと大き目だから紙を詰めておいた、って——」
「駅長さんが?」
「そうです」
公江は、帽子の内側を、バリバリとはがして行った。
「お母さん——」
「いいから」
公江は、中から、細長く折《お》りたたまれた紙を、抜《ぬ》き出した。帽子の形に沿《そ》って、丸く環《わ》になっている。
「何か書いてあるよ」
と草永が覗《のぞ》き込《こ》む。
公江が紙を押《お》し広げた。文江は、信じられないような思いで、それを覗き込んだ。
「やっぱりね」
と公江が言った。
そこには、名前と、数字が細かく書き記してあった。——数字が金《きん》額《がく》であることは、すぐに分る。
「お金を貸《か》した記《き》録《ろく》?」
「そうよ。金子さんは、これをどこかへ隠《かく》しておきたかったのね」
「——名前があるわ。村の人たちね。——見て!」
文江が唖《あ》然《ぜん》とした。
そこには宮里医《い》師《し》の名前もあった。そして……。
「白木って……あのお巡《まわ》りさんじゃないのか?」
と草永が訊《き》いた。「呆《あき》れたな!」
「ともかく——」
公江は、その紙を折《お》りたたんだ。「これは私が預《あずか》りますよ。いいわね?」
「はい、もちろん」
と、鉄男の母が言った。「お前も黙《だま》ってるんだよ」
「うん」
鉄男は、わけが分らないといった顔をしていた。