「驚《おどろ》いたわ」
と、文江は表に出ると、言った。
「村の生活だって、平《へい》穏《おん》じゃなかった、ってことよ」
と公江は言った。
「でも、宮里先生がどうして?」
「たぶん、法事があったときの借金じゃないのかしら。それに、町へ出ると、あの人は結《けつ》構《こう》、遊んでいたようだしね」
「何だか幻《げん》滅《めつ》したわ」
「大人《おとな》の世界だもの。きれい事では済《す》みませんよ」
それはそうだ、と文江は思った。期待する方が間《ま》違《ちが》っているのかもしれない。
都会で、散々、醜《みにく》い人間模《も》様《よう》を見て来てつい、無《む》意《い》識《しき》の内に、故《こ》郷《きよう》の素《そ》朴《ぼく》な人々、というイメージを作り上げていたのだろう。
どこであろうと、そこが人間の社会である限《かぎ》り、きれいごとでは済《す》むはずがないのだ……。
「すると、どうなるんでしょうね」
と草永が言った。「金に困《こま》っていたのは、一人や二人じゃなかったわけですか」
「そういうことになるわね」
と公江が肯《うなず》く。「——暖《あたたか》くなったわね。そこへ座《すわ》りましょう」
「どこへ?」
「駅のベンチよ」
「だって——」
「当分、列車は来ないわよ。平気よ」
人のいないホームへ入ると、三人は、古ぼけたベンチに腰《こし》をおろした。
「このベンチ、昔《むかし》からあったやつかしら?」
と、文江は言った。
「そうよ。憶《おぼ》えてる?」
「うん。——でも、こんなにガタついてなかったと思うけど」
「年月がたてば、くたびれて来るわよ」
と、公江は言った。
「見たところは変らないように見えても、変っているのね」
「そう」
——平和な静けさだった。
ホームには人もなく、レールは眠《ねむ》りこけている。その眠りを覚《さ》ます列車の響《ひび》きは、まだしばらくやって来ない。
「——どういうことなんでしょうね、今度の事《じ》件《けん》は」
と草永が言った。「お母さんには何か考えがおありのようですけど」
「お金が総《すべ》ての中心だった、と言っていいのかしら」
と文江が言った。「つまり、金子さんが——というより、金子さんの奥《おく》さんが、みんなにお金を貸《か》しては、取り立てていた。そして誰《だれ》かが、銀行からお金を奪《うば》って来ようと思いついた……」
「それは逆《ぎやく》じゃないかな」
と草永が言った。
「え?」
「いくら借金してて、困《こま》ってるからって、銀行強《ごう》盗《とう》までやるかね」
「そこが問題ね。だけど、実《じつ》際《さい》にお金は盗《ぬす》まれているわ」
「こう考えたら?」
と、公江が言った。「強盗が他にいたとしたら?」
「まだ他に?」
「銀行を襲《おそ》った人は、どこに逃《に》げると思う?」
「あの町からなら……山の方ね」
と文江は言って、肯《うなず》いた。「そうか。強盗が山に隠《かく》れていて、和也君が、それに出くわしたんだわ!」
「そう考えた方が自然でしょうね」
「すると、どうなったのかな」
と草永が考え込《こ》む。「強《ごう》盗《とう》と、和也との間で、格《かく》闘《とう》になる。——和也が強盗を殺したんだ!きっとそうだ。それであの血《ち》染《ぞ》めの手《て》拭《ぬぐ》いのことも、説明がつく」
「ところが、和也君は、お金を見て、欲《よく》を出したのね」
「無《む》理《り》もありませんよ」
と公江は言った。「この村じゃ、まずお目にかかれない大金だしね。ついフラフラッとしたんでしょ」
「で、強盗の死体をどこか山の奥《おく》へ埋《う》めたんだ。そして金を持って帰った。——まさか、君が行方《ゆくえ》不明になってて、その殺人容《よう》疑《ぎ》をかけられるとは思わなかったんだろう」
「それじゃ、しゃべれなかったわけね」
と、文江は肯《うなず》いた。「ごまかし通せば、お金は自分のものになるわけだし」
「すると、どこにお金を隠《かく》してたんだろうな?」
「自《じ》宅《たく》の床《ゆか》下《した》へ埋《う》めるのは、危《き》険《けん》だったでしょうね」
「するとどこか山の中? でも、掘《ほ》り出しに行くのは目につくね」
「もっといい隠し場所があったんでしょう」
と公江が言った。「若《わか》い人たちの『秘《ひ》密《みつ》の場所』になっているところが」
文江は、線路越《ご》しに、半分焼け落ちたあの倉庫を見やった。
「——あの中ね!」
「あそこなら、大して苦労せずにお金を隠しておけるでしょうね」
「なるほど……」
草永は立ち上った。「行ってみよう。もちろん、痕《こん》跡《せき》なんて残ってないだろうけど」
「行きましょう!」
と文江も立ち上る。
「二人で行っといで」
と、公江は言った。「私はくたびれるから、いやよ」
——文江と草永は、土手を上って、焼け落ちた倉庫の前に立った。
村の若《わか》者《もの》に襲《おそ》われかけた所である。
「——お母さんの言う通りだろう。ここがまず隠《かく》し場所として思いつくよ」
「いつもガラクタで一《いつ》杯《ぱい》だものね」
「問題はその後だ」
と、草永が考え込《こ》む。「なぜ和也は死んだのか?」
「自殺のはずはないとすると……」
「殺されたんだ。——犯《はん》人《にん》は、和也が金を隠していたことを知っていた」
「殺したということは、金の隠し場所を訊《き》き出したってことなのね」
「おそらくね。だが、和也が誰《だれ》にしゃべったんだろう?」
「分らないわ……。よほど心を許《ゆる》せる相手だったのか……」
「その相手が金に困《こま》っていたとしたら? あのリストの中の誰《だれ》かで」
「ありうるわね。話を聞いて、お金を自分のものにしようとした……」
文江は、手でそっと首をこすっていた。
「——どうしたんだい?」
「え? ああ、別に……。ほら、例の、首を絞《し》められたところだわ、ちょっとかゆくて気になるの」
「そういえばそんなこともあったっけ」
「何よ、冷たいのね」
と、文江は笑《わら》った。
「ともかくここまで入りこんだんだから、もう後《あと》戻《もど》りはできないね」
と、草永は言って、焼け落ちた倉庫を眺《なが》めた。「——一体誰がやったのかなあ。金は、人を狂《くる》わせるからね。僕《ぼく》なんか、却《かえ》って金があると落ち着かないよ。結《けつ》婚《こん》しても小《こ》遣《づか》いは少しでいいからね。——ねえ。——おい、どうしたんだ?」
「ねえ、来て」
と、文江は、草永の手を引《ひつ》張《ぱ》った。
「どこへ行くんだよ?」
「いいから」
文江は、青ざめた顔をしていた。
ホームへ戻《もど》ると、公江がベンチに座《すわ》って居《い》眠《ねむ》りをしている。ちょうど鉄男がやって来た。
「やあ、お嬢《じよう》さん」
「母がいるの。お願いね」
「ええ、構《かま》いませんよ。どうせヒマですからね」
と快《こころよ》く肯《うなず》く。
文江は、草永の先に立って、ずんずん歩いて行く。
「おい、どこへ行くんだよ?」
と草永が声をかけても、振《ふ》り向きもしないのだ。
すると、突《とつ》然《ぜん》クルリと振り向いて、
「ねえ、私と結《けつ》婚《こん》したい?」
と言った。
草永は面《めん》食《くら》って、
「当り前だよ」
「じゃ、私の頼《たの》みを何でも聞いてくれる?」
「いいよ」
「本当に何でも?」
「君のためなら、掃《そう》除《じ》でも育《いく》児《じ》でも」
「そんなんじゃないの」
「じゃ、何だい?」
「人を殴《なぐ》ってほしいの」
草永が目をむいた。
「——またおいで」
宮里医《い》師《し》が、子《こ》供《ども》を送り出していた。
「先生、こんにちは」
「やあ文ちゃんか」
「ちょっとお話があるんですけど」
「いいとも」
宮里は診《しん》察《さつ》室《しつ》へ入ると、「——何だね、二人揃《そろ》って。避《ひ》妊《にん》の相談かな?」
と、笑《わら》いながら言った。
文江が草永へ肯《うなず》いて見せた。草永は進み出ると、軽く一礼して、
「失礼します」
と言うなり、拳《こぶし》を固めて、宮里医師を殴《なぐ》った。
宮里は部《へ》屋《や》の隅《すみ》まで吹《ふ》っ飛んで、棚《たな》にぶつかり、床《ゆか》にずり落ちた。——やっとの思いで起き上ると、
「おい——何をするんだ?」
と、目をパチクリさせている。
「お返しです」
と文江は言った。「こ《ヽ》れ《ヽ》のね」
指で、首《くび》筋《すじ》を指す。
宮里は、じっと文江を見上げていたが、やがて、ホッと息をつくと、床の上にあぐらをかいた。
「——どうして分った?」
「あの声。——ずっとお会いしてなかったから分らなかったけど、こうして会ってお話すると思い出して来ますよ。それに、殺さないように、微《び》妙《みよう》なところで止めるなんて、多少でも専《せん》門《もん》知《ち》識《しき》のある人でなきゃ、できないでしょ」
「すまん」
宮里は頭を下げた。
「でも、坂東さんを殺したのは、まさか——」
「違《ちが》う! 私じゃない!」
と宮里はあわてて言った。「そんなことまでするか。——いくら何でも、私は医者だぞ!」
「威《い》張《ば》れませんよ、あんなことしといて」
と、文江はにらんだ。
「うむ……。まあそう言われればその通りだが」
宮里は頭をかいた。
「——私、別に先生を訴《うつた》えるつもりはありません。でも、その気になれば、殺人未《み》遂《すい》で逮《たい》捕《ほ》ですよ」
「分っとる」
「理由を話して下さい。——なぜあんなことまでして、私を田《でん》村に来させまいとしたんですか?」
宮里は、起き上ると、古ぼけた椅《い》子《す》に腰《こし》をかけた。椅子がキュッと鳴った。
宮里は、急に老《ふ》け込《こ》んだように見えた。
「——少しだけ待ってくれんか」
と宮里が言った。
「だめです」
と文江がはねつける。
「なあ、頼《たの》む。——これは私一人の問題じゃないんだ。私だって、自分の身だけが可愛《かわい》くて、お前さんをおどかしたわけじゃないんだよ」
「それは分ります」
「だから一日だけ待ってくれ。必ず、事《じ》情《じよう》を説明する」
宮里は身を乗り出すようにして言った。
「約《やく》束《そく》してくれますか」
「約束する。——信じてくれよ」
文江はしばらく考えてから、
「分りました」
と言った。
「ありがとう」
「明日、また来ます」
「分った。待っているよ」
——文江は、草永を促《うなが》して、外へ出た。
「いいのかい?」
と草永が訊《き》いた。
「だって、仕方ないじゃないの」
「僕《ぼく》はあのまま、押《お》すべきだったと思うけどね」
「そうね」
文江にも、それは分っていた。——しかし、やはり自分も田村の人間なのだ。つい、相手を信じてしまう。
「もう返事をしてしまったんだもの、いいじゃない」
と、自分に言い聞かせるように、文江は言った。
「——どこへ行く?」
と、草永が足を止める。
「あ、母を迎《むか》えに行かなきゃね。じゃ、駅へ行きましょうか」
二人が駅へと歩いて行くと、向うから、鉄男が走って来るのが見えた。
「どうしたのかしら?」
「何だかあわててるね」
鉄男は、帽《ぼう》子《し》が落ちるのも構《かま》わずに走って来た。
「お嬢《じよう》さん!」
「どうしたの、鉄男君?」
「お母さんが大変です!」
文江の顔色が変った。
「母がどうしたの?」
「ずっと眠《ねむ》っておられて——何だかおかしいんで、声をかけたら——意《い》識《しき》がないみたいなんです」
文江は愕《がく》然《ぜん》とした。
「——お母さん」
文江が駆《か》け出す。草永も、あわてて、その後を追った。
「——心《しん》臓《ぞう》が、かなり弱っていますね」
と、医《い》師《し》が言った。
「そうですか」
「当分は安静にしておかないと」
「どんな具合なんでしょうか」
「まあ、すぐに危《き》険《けん》ということはないと思いますが、大事にしなくてはいけません」
「分りました」
文江は礼を言って、頭を下げた。
——ここは、田《でん》村の隣《とな》りの町の病院である。
白木巡《じゆん》査《さ》が、すぐ救急車を手配してくれて、ここに運び込《こ》んだ。
この辺では唯《ゆい》一《いつ》の、総《そう》合《ごう》病院なのである。
時計を見て、文江は驚《おどろ》いた。もう夜の八時になっている。
「——どうだい?」
草永がやって来た。
「あ、草永さん」
「具合は?」
「今、眠《ねむ》ってるわ。当分安静ですって」
「そうか」
二人は、廊《ろう》下《か》をゆっくりと歩いた。
「——私がずいぶん苦労をかけたのが、悪かったのかもしれないわ」
と文江が言った。
「それは仕方ないよ。子《こ》供《ども》は親に苦労をかけるものさ」
「ええ。——でも、私の場合は特《とく》別《べつ》よ」
「自分を責《せ》めない方がいい」
「大《だい》丈《じよう》夫《ぶ》。こんなことで落ち込《こ》む私じゃないわ」
と、文江は微《ほほ》笑《え》んだ。
「それでこそ君だ」
草永は文江の肩《かた》に手を回して、力を込めて抱《だ》いた。
「——あなた、どうするの?」
「うん、この町のホテルを取って来た。ここから歩いて五分、走っても十分って所だ」
「なあに、それ」
と、文江は笑《わら》い出した。
自分を元気づけようとしてくれる草永の心づかいが、ありがたかった。
「その部《へ》屋《や》からここへ交《こう》替《たい》で通おうよ。君もつきっきりじゃ疲《つか》れるだろう」
「そうね。ありがとう」
「ともかく今夜は——」
「私、ついてるからいいわ」
「そうかい?」
「一《いち》応《おう》娘《むすめ》ですからね、これでも」
と文江は言った。
「ちょっと見《み》舞《ま》っていいかい?」
「もちろんよ」
草永が病室へ入っている間に、文江は、湯を沸《わ》かして、お茶を淹《い》れた。
病室へそっと入って行くと、母が目を開いた。
「あら、お母さん、起きたの?」
「僕《ぼく》が起こしちゃったようだな」
と、草永が頭をかいた。
「いいんですよ」
公江の声は、いつもと変りなかった。「文江も、かまわないのよ、ここにいなくたって」
「まさかあ」
と、顔をしかめて、「いくら何でも、私にも子《こ》供《ども》としてのプライドがありますからね」
「ま、いいわ。じゃ、ここにいてちょうだい。——草永さん、すみませんね」
「いいえ、とんでもない」
草永は快《こころよ》く言った。「じゃ、交《こう》替《たい》に来るからね」
「ええ、ありがとう」
文江は、草永を、病院の出口まで送って行った。
「——明日はどうするんだい?」
と、草永は言った。
「明日?——ああ、宮里先生の話ね」
文江は考え込《こ》んだ。「母の具合次《し》第《だい》ね。落ち着いていれば……」
「そうだな、ともかく、明日来るよ」
「うん。——それじゃ」
ホテルの部屋を教えて、草永は病院を出て行った。
文江は、やっと自分に帰ったような、そんな気がして、ゆっくりと病室の方へ戻《もど》って行った。
病院の夜は早い。——もう大部分の病室は眠《ねむ》りについているようだった。
母の病室まできて、ドアを開けようとした文江は、足音に振《ふ》り返った。
「まあ」
と文江は言った。「どうしたの?」
立っていたのは、杉山百代だった。
「——お母さん、どう?」
「ありがとう。心《しん》臓《ぞう》らしいの。今は落ち着いてるわ」
と、文江は言った。
「良かったわね。鉄男君から聞いて、びっくりして……」
「わざわざありがとう。——何しろ娘《むすめ》の出来が悪いと、母親の心臓も、苦労が多いわけよ」
と、文江は言って笑《わら》った。
百代は、何だか目を伏《ふ》せがちにして、妙《みよう》な様子だった。
「どうしたの?」
と文江は訊《き》いた。
「ちょっと……話があって……」
「私に?」
「こんなときにごめんなさい」
「いいわよ、——じゃ、ともかく……どこかに座《すわ》ろう」
文江は百代を促《うなが》して、明りの消えた待合室へ行った。——廊《ろう》下《か》の明りが入って来るので、そう暗くはない。
「何なの、話って」
百代はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように顔を上げて、
「あのメモをちょうだい!」
と言った。