「飲めるのね」
希代子は、ワイングラスを空けた水浜を見て言った。
「強くはないです。 ——といっても、普通、くらいかな」
「若いものね」
と、希代子は首を振って、「私も……水浜君くらいのときは、いくら飲んでも平気だったわ」
「今だって、若いじゃありませんか」
「そう? 信じておくわ」
と、希代子は笑った。
結局、静かなフランス料理の店を選んだのは、騒がしくて話のできないのを心配したからだが、ここはまた静かすぎて、話しにくいくらいだった。
「 ——いいお店ですね」
と、水浜が言った。
「そう? 大学生には少し物足りないかもしれない」
「そんなこと……。そんなに大食いじゃないですよ」
と、水浜は笑った。
希代子は、何だか妙に緊張してしまって、話が続けられない自分を感じていた。
むしろ、水浜の方が大学での話や、オーケストラのことなど、希代子を話の中へ引き込んでくれる。
少々情ないようでもあった。
食後、デザートを食べながら、
「ゆうべ ——」
と、希代子は言った。「奈保ちゃんから聞いたわ」
水浜が希代子を見る。
「キスした、って……。空に舞い上りそうだったわ」
水浜はちょっと目を伏せて、
「すみません」
と言った。「いけないな、とは思ったんですけど」
「でも……。まあ、好きならね」
希代子もつい水浜から目をそらしていた。「でも、その先は、あなたが抑えてね。もし、奈保ちゃんが ——」
「大丈夫です」
と、水浜は希代子を 真《まつ》直《す》ぐに見て言った。「大丈夫です。だって——」
と言葉を切る。
「だって?」
「いえ……。何でもありません」
と、首を振ると、水浜は口をつぐんでしまった。
食事はおいしかったが、その後は、あまり話も弾まなかった。
キスのことを言い出したのを、希代子は後悔した。
「 ——帰り、送るわ」
と、希代子が席を立とうとすると、
「僕が送ります」
と、水浜が言った。「それくらい、させて下さい」
「分ったわ。でも……電車で帰りましょうね」
「はい」
やっと、二人は自然に 微笑《ほほえ》むことができた。
「あなた、いつかファックスに書いてたわね」
もうマンションに近い。夜道は人影もあまりなかった。
「私の彼氏がどんな人かって」
「ええ」
「いない、って言っても信じてくれないんでしょ」
「まさか」
「ほらね」
「でも ——」
「本当なんだから」
と肩をすくめて、「時間はめちゃくちゃ、休みもあってないようなもんだし、これでデートするのは至難の業」
「そうですか」
と、水浜は肯いて、「でも、きっと希代子さんがその気になったら、相手なんかすぐ見付かると思う。今はその気がないんですよ」
「決めつけないで」
と、希代子は笑った。
「仕事が楽しいから、あえていらないんでしょ、恋人」
「そんなの……ちょっと寂しいわね」
「でも、そんな風に見える」
「そう? でも、恋人ができれば、何としてでも時間を作るでしょうけどね」
「そうでしょうね」
二人は、何となく黙った。
「 ——そこのマンションよ」
と、足どりをゆるめる。
水浜は、足を止めて、
「僕のために時間を作って下さって、ありがとう」
と言った。
「とんでもない。 ——ね、水浜君」
「何ですか」
「さっき、レストランで言いかけてやめたのは……。何を言おうとしたの? 言いたくなければ、いいんだけど」
「それは ——」
と、水浜は言いかけて、希代子の肩越しに視線を投げた。
振り向いた希代子は、白石が、少し離れて突っ立っているのに気付いた。
「 ——この前の小僧か」
と、白石がフラッとやってくる。
「酔ってるのね。相変らず」
「酔ってでもいなきゃ、生きてけないぜ」
と、白石は言って、目はじっと水浜の方を見ている。
白石は、しかし少なくとも身なりは小ざっぱりしていた。
やはり津山隆一との仕事が、うまく行っているのだろうか。
改めて、津山に白石とのつながりをはっきり訊く必要があると思った。
「ずいぶんとまた、若いのに趣味が変ったじゃないか」
と、白石が 歪《ゆが》んだ笑みを浮かべた。
「誤解しないで。そんな仲じゃないわ」
「そうか? とてもそうは見えないぜ。いかにも二枚目ってのが、お前の好みだろう」
「もう帰って。二度と姿を見せないで、と言ったはずよ」
「お前の希望だろ? 人間、歩み寄りが大切さ。こっちの希望も聞いてくれ」
「あなたの希望?」
「お前を誰にも やらないってことさ。他の男に指をくわえて持っていかれるほど、お人好しじゃない」
「もう充分でしょう。 ——帰って」
と、希代子はくり返した。
「分った……。しかし、そんな青二才よりも俺の方がどんなに ましか」
「人間の出来の問題よ。それが分らないのね」
「その内分る。お前の職業だって、まともじゃない。エリートを捕まえるのはまず無理だろう」
「大きなお世話」
と言い返す。
「じゃ……行くぜ」
「どうぞ、どこへでも」
白石がフラッと行ってしまった。
「 ——ごめんなさい」
「謝っちゃいけない。そうでしょ」
「ええ」
ともかく、用心に越したことはない。水浜は、希代子の部屋のドアの前まで送って来てくれた。
「ありがとう」
と、玄関の前で希代子は言った。
「いえ……」
と行きかけて、「希代子さん」
「なあに?」
「さっき言いそびれた言葉ですけど」
と、水浜は言った。「『だって』と言いましたよね」
「ええ」
「その後を聞きたい?」
「ええ」
「僕が奈保ちゃんにキスしたのは……。だって、希代子さんにはキスできないからです」
じゃあ、と水浜は足早に行ってしまう。
希代子は、しばしぼんやりとしていた。
私にキスできないから……。
そんなの ——お世辞だ。年上の女を喜ばせてくれるのが上手なのだ。
でも、もしかしたら……。
もしかしたら、本当に水浜は私のことが好きなのかもしれない……。
希代子は部屋へ入り、しっかりとドアをロックした。
水浜の最後の一言が、胸を騒がせている。
しばらく、希代子はソファに身を沈めていた。そして、やっとファックス受信の音が聞こえて、立ち上った。
「編集長?」
と、ファックスを見る。
倉田のことである。
〈幸子が見付かった。もし良ければ、明日、病院へ来てくれ。 倉田〉
とあるだけ。
どこで、どんな様子で見付かったのか、何も書いていない。
ともかく、良かった。 ——ホッとして、とたんに眠くなった。
いくらでも眠れそうな、そんな気のする希代子だった。