「おい、篠原君 ——」
と、久保田が立って来る。
「はい」
希代子は、受話器を置いた。 ——たった今、待たせておいた最後のページを、
「そのまま刷って」
と、印刷所へ連絡したところである。
久保田は、何だか一歩間違えば浮浪者のようだった。 ——ワイシャツはしわくちゃで、ネクタイは単に首に絡みつく布にすぎなくなっている。
そしてボサボサの髪、不精ひげ。
「何ですか、編集長」
と、希代子は言った。
体が宙に浮かんででもいるようだ。
「うん……。後はどこが残ってるんだ、校了?」
と、久保田が少し上ずった声で言った。
「もうありません」
希代子は進行表を久保田の方へ差し出した。「全部消しました。みんな終りです」
「そうか」
久保田はちょっとの間、ポカンとしていたが、「じゃ……終ったのか」
「ええ。とりあえず今度の号は。でも、次の号も、その次の号もあるんですよ」
「そうか……終ったのか」
久保田は、ちょっと笑った。「これが編集か。 ——結構やれるもんだな」
「言ってくれますね」
と、希代子は笑って言った。
編集部の中に笑いが起った。 ——もちろん全員が残っている。
「ともかく……すんだか」
久保田は、腰に手を当てて、編集部の中を見回すと、「ご苦労さん。 ——よくやってくれた」
と言った。
ごく自然に……拍手が起った。
何だか変だ。毎日毎日くり返している仕事なのに、どうしていちいち拍手なんか……。
でも、希代子にもみんなの気持は分った。倉田の突然の事件で、やはり不安だったのだ。
果してやれるのだろうか、と。 ——それが、何とかいつもの月より何時間か遅れただけで、やりとげた。その安《あん》堵《ど》の思いが、拍手となったのである。
互いへの拍手、自分への拍手でもあるし、
「やればできるじゃないか」
という気持の現われでもあるだろう。
「篠原君、ありがとう」
久保田が言った。「君のおかげだ」
ちょっと照れくさいが、 嬉《うれ》しかった。
「どういたしまして」
希代子は、引出しからバッグを取り出すと、
「今日は何があっても夕方まで起きない!」
と宣言した。
もう窓の外は明るくなっている。当然だろう。午前七時である。
「 ——さ、片付けて帰ろう」
久保田の言葉で、みんながガタガタと音をたてながら立ち上り、机の上を片付け始めた。
床には 紙《かみ》屑《くず》が山になっているが、誰も気に止めやしない。
希代子は、太田へ、
「カズちゃん、出て来る?」
と訊いた。
「ええ。夕方、一件取材が入ってますから」
「ご苦労様」
「そのまま出かけていいですか。デートなんで」
「いいわよ。何時の約束なの?」
「十時です」
「夜の? ひどいデートね」
「普通なら、 呆《あき》れられちゃいますよね。何の商売してるんだって」
と、太田は笑った。
「まともじゃないよね。朝の七時に会社を出るなんて」
と、希代子は首を振って、「編集長。明日 ——あ、今日か。夜のパーティは出なくていいですか」
「何かあったか」
久保田は、何とかネクタイをしめ直して、格好をつけようとしている。
「会社のですよ。私、正社員じゃないし」
「ああ、構わん。晩飯を食いたい奴が出ればいい」
久保田もすっかり言うことが「編集の人間」である。 ——希代子も、久保田を抵抗なく「編集長」と呼べるようになっていた。
電話が鳴ったが、ちょっとの間、誰も出ようとしなかった。何か問題でも起ったのかと思うと、「出たくない」のである。
しかし、放っておくわけにもいかず、太田が取る。
「 ——あ、どうも」
希代子には分った。何も言わずに太田から受け取る。
「 ——もしもし」
「希代子か」
倉田である。「どうだ?」
「今、終りました」
少し間があって、
「 ——そうか。ご苦労。問題なかったか」
「特に何も。これから帰るところです」
「良かった。希代子。ありがとう」
「こんな時間に起きるなんて、時差ボケ起しますよ」
と、希代子は言ってやった。
「お前も入院でもしてみろ。いやでも早寝早起きだ」
と言って、倉田は笑った。
ホッとした笑いではあるだろうが、希代子はその裏に寂しげな響きを聞いたような気がした。
自分なしでも、無事に雑誌が出るということ。 ——それは倉田にとっては寂しいことなのである。
「早く寝て、ちゃんと治らなきゃ、どこも雇ってくれませんよ」
と、希代子は言ってやった。
「ああ。 ——希代子。ありがとう」
倉田の礼の言葉は、色んな意味を含んだものに違いなかった。
——会社の「通用口」を出ると、希代子は欠伸《あくび》をしたが、眠気はあまりない。
神経がたかぶっているので、眠くならないのだ。いつものことなので、分っていた。
「篠原君」
と、久保田も出て来た。「疲れたろう」
「いいえ、私は毎月やってますから」
と、希代子は言った。「久保田さんこそ、初めてでしょ。こんな時間に帰るの」
「ああ……。うちで女房が心配してる。突然連日の朝帰りだからな」
「説明してあげますよ。あらぬ疑いをかけられたときは」
タクシーが来る。「久保田さん、どうぞ、早く帰った方が」
「いや、君が乗れ」
と、久保田は首を振った。「せめて編集長らしいことをさせろよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
希代子も、あえて逆らわなかった。「お先に」
「お疲れさん」
——これからも、何度「お疲れさん」を聞くことになるだろうか、と希代子は思った。
タクシーの座席に身を 委《ゆだ》ね、どうせ眠れはしないのだが、目を閉じた。
朝日が、ときどきまぶしく 瞼《まぶた》を照らして行った。
マンションに戻った希代子は、朝刊を手にソファに座った。
せっかく活字から解放されたのに、と思うが、どうせ眠れないのだ。TVを見るのもくたびれる。
お茶をいれて飲んでいると、電話が鳴り出して、びっくりした。 ——こんな時間に? 白石かもしれない、という思いが頭をよぎった。
用心しながら、留守電を解除せずに聞いていると、
「 ——水浜です」
という声。
急いで受話器を上げた。
「あ、いらしたんですか」
と、向うがびっくりしている。
「今、帰って来たところ」
「へえ」
と、珍しそうに、「吸血鬼みたいな生活なんですね」
「他に言いようないの?」
と、笑って、「何か?」
「あの、奈保ちゃんのことなんですが、明日テストなんです。もし時間があったら」
「ああ、ずっと放ったらかしちゃったから」
と、希代子は言った。「気にはしてたんだけど。明日、何のテスト?」
「生物です」
「分った。じゃ、今夜行くわ」
「お願いします」
「あなたに、そんなマネージメントまでやらせちゃって、悪いわね」
「いえ、ちっとも」
「あの……」
と言いかけて、「夕食の約束だけど」
「でも ——お忙しいんでしょ」
「今朝で一区切りなの。夜なら……明日でも」
「僕はいつでも構いません」
「じゃあ……明日の夜?」
「はい」
「会社の前で待っててくれる? 七時くらいでどうかしら」
「分りました」
——希代子は、あまりに簡単に決ってしまったので、却《かえ》って拍子抜けした。
「これから大学?」
「そうです。 ——どうなりました、この間の女の人?」
細川幸子のことだと気付くのに、少しかかった。
「まだ、行方がわからないの。心配してはいるんだけど……」
そうだろうか。水浜と出かけることで頭が一杯になってはいなかったか。
しかし、電話を切って、希代子が第一にしたことは、自分の分厚い手帳を開いて、水浜とどこの店に行くか、考えることだった……。
「 ——ね、すてきでしょ?」
と、奈保が写真を見せた。「よくとれてるわ、 あの人」
あの人ね。 ——希代子は、ちょっと笑って、
「さ、今は勉強。明日のテスト、大変よ、このままじゃ」
「はあい」
と、奈保は口を 尖《とが》らして、「ああ、早く卒業したい。テストがなくていいわね、希代子さんは」
「何言ってるの」
——大人になれば、もっともっと大変なことが待ち受けている。そう言ってやることは簡単だ。しかし、人間誰から言われたところで、自分自身がそうなってみなければ分りはしない。
——久しぶりの勉強で、教える希代子の方もみっちりと身が入った。奈保にとっては迷惑だったかもしれない。
「ご苦労様」
と、叔母の静子が軽い食事を運んで来てくれる。「少し休んでね」
「どうも。 ——叔父さんは?」
「今は大阪。ほとんど家にはいないわ」
と、静子は言った。
「 ——嘘じゃないかなあ」
と、静子が行ってしまうと、奈保はサンドイッチをつまみながら言った。
「嘘って?」
「お父さん ——大阪へ行くって、きっと口実。あの女と一緒だよ」
希代子は食べかけた手を止めた。
「どうして?」
「たぶん……。お母さんの様子見てると、分るもの」
希代子は何も言わなかった。たぶん、奈保の察した通りかもしれないのだ。
「本気で誰か他の人、好きになった、っていうのなら、しょうがないけど」
と、奈保は言った。「どう思う?」
「さあ……。恋の形は人それぞれだから」
「そうだね」
と、奈保は 肯《うなず》いて、「私だって——」
「うん?」
奈保は、ちょっとためらってから、それを振り切るように言った。
「希代子さん。この間 ——あの人とキスした」
希代子は、ゆっくりとサンドイッチをかみ切った。
「 ——そう」
「いいよね、それくらい」
「そうね……」
「それ以上は絶対しないから」
「そうね。絶対よ」
「うん」
と、奈保は肯いて、「 ——キスだけなら、してもいいよね?」
と訊いたのだった。