夜は暗かった。西空に懸った細い月は、紐で繋がれたように、太陽の後を追って沈んで行った。めいめい雨衣をかぶり、雑嚢を枕に横になった。強い光を放つ大きな蛍が、谷間を貫く小さい流れに沿って飛んで来て、或いは地上二米の高さを、火箭のように早く真直に飛び、或いは立木の葉簇の輪郭をなぞって、高く低く目まぐるしく飛んだ。そして果ては一本の木にかたまって、その木をクリスマス・トリーのように輝かした。
マラリア患者は唸っていた。正確に呼吸のリズムを追い、人間に呼吸の必要を思い出させるような、そういう規則正しい呻きであった。
「おい、おっさん、寝たのか」
と近くで声がした。さっき私から玉蜀黍を貰いそこなった若い兵士の声である。私が呼ばれたのかと思い、ちょっと頭をもたげたが、やがて「うん」と彼と同じ中隊の安田が答える声がした。
「なあ、俺達はどうなるんだろうなあ」
「うるせえな。なん度同じことをいやがるんだ。なるようにしかならねえさ」
「そりあ、そうだが——お前は要領がいいから羨しい。俺なんか……」
「なんとか工面して来るんだよ」
「工面たって。俺あお前みたいに煙草は持ってねえし、脚気で歩けねえし」
「俺よか歩けるさ。こんなとこでまごまごしてねえで、何処へ土民の畠でも見つけに行くんだよ。俺だって潰瘍さえ癒りゃ、こんなとこで衛生兵の御機嫌なんかとっちゃいねえ——ええ、畜生」
「おっさん、痛いか」
「痛いよ」
「困ったな。まあ俺がついててやるから、安心しな」
「大きにお世話だ。ついてたってなんにも出ねえぜ。(私は彼が夕方若い兵士に芋を与えなかったのに気が附いていた)何故どっかへ勝手に食い物を探しに行かないんだ。ええ」
「淋しいんだよ」
「馬鹿やろ、お前いくつだ」
「二十二さ。去年検査で第二乙さ」
「二十二なら立派な大人だ。なあ、おい、こうなったら、めいめいが自分で命を継いで行くよりしようがねえんだ、他人のこた構っちゃいられねえ。人間、草の根食ったって、ひと月やふた月は生きられるはずだ。そのうちにゃ……」
「そのうちにどうなるね」
「なんとかなるさ、馬鹿やろ。そんな先のこと考えたってどうなるものか」
「おっさんは齢も行ってるし気が強いが、俺あもういっそ死にたいよ」
「死にたきゃ死ね」と相手は少し間をおいてから答えた。
「なあ、おっさん、俺の一生の秘密を話そうか」
「聞いたってしようがねえよ」
「そういうなよ、実はな、今まで誰にもいわなかったがね、俺は女中の子なんだ」
「うるせえな。それがどうしたんだ。珍らしくもねえ」
「そうか知ら、でも俺はまだ誰も女中の子だって奴に会ったことがねえが」
「誰もお前みたいに自慢しやしねえさ、映画や小説にはあらな」
「うん『瞼の母』ってのを見たが、俺あいやになっちゃってね」
「なんだってお前、今頃不意にそんなこといい出したんだ」
「何故ってないが、ただちょっとね。いっておきたくなったのさ……阿母は追ん出されたんだそうだ。俺はなんにも知らずおやじの家にいたが、俺がぐれ出したら、お袋がそれをいやがった」
「ふーん、何でぐれたんだ」
「何でもねえさ、友達と喫茶店へ行ったり映画を見たり……パチンコやったりしてね」
「おやじの商売はなんだ」
「かじ屋さ。深川白河町の交番の傍だ——そいでかっとなって俺あ家を飛び出しちゃった。それから知り合いの喫茶店のバーテンになったり、コックになったり……」
「ふーん、結構じゃねえか。男一匹一人で食って行けりゃ、女中の子でもなんでも差し支えねえわけだ」
「でも、阿母に会いたくってな」
「阿母はどうした」
「暫く千葉の田舎へ帰っていたが、松戸でかたづいてる先をおやじにきいたから、訪ねて行った」
「…………」
「そしたら、何故、そんな勘当同然の身体で、あたしの家へ来たか、っていやがった。そこんちは傘屋で、丁度亭主は留守だったが、どうしてあの人お前にあたしの家を教えたんだろうって、大変な権幕よ」
「よくある話だ。なんだってそんなこと、今頃いい出したんだ」
「俺はかあっとなって、そこを飛び出しちゃって」
「よく飛び出す野郎だ。じゃ、そいでいいじゃねえか」
「その帰りに公園で『瞼の母』を見たが、途中で俺あいやあになっちゃってね。見ていられなかったよ」
「泣いたのか」
「泣くどこじゃねえよ。いやあになっちゃってね。飛び出しちゃったよ」
暫く沈黙が続いた。やがて安田がいった。
「じゃ、こんどは俺の話をしてやろうか」
「え、おっさんも女中の子か」
「馬鹿やろ。俺じゃねえ、俺が生ませた子だ」
「…………」
「学生の時出来た子だ。おやじに見つかって、別れさせられた。つまりは俺が意気地がなかったわけだが、口をきいた兄貴が、感心にその子を里子へ出して育ててくれたんだ。俺にゃなんにもいわずにね。俺あ学校出るとすぐ田舎へ勤口を当てがわれて、追っ払われたから知らなかった」
「兄さんにも子供はあるんだろう」
「そうさ。がその時はまだなかった。おやじにも内証で兄貴が育ててくれた。おやじが死んでから、家へ引き取って、俺の子だって打ち明けやがった。しかし一生親子の名乗りはさせないってね」
「ふーん、その頃はおっさんも、もう結婚してたんだろうな」
「そうさ——その子がまたよく出来やがるんだ、兄貴の子よりずっと出来る」
「おっさんの子供たあどうだ」
「俺の子より出来る」
「今いくつだ」
「十七。少年航空兵を志願したはずだ」
「えっ」
「この三月俺が出征する時、俺あ隊まで会いにいった。俺あ自分からは、なんにもいわなかったが、帰る時そいつ『お父さん、お達者で』っていやがった」
「お前は悪いおやじだな」
「ふん、しようがねえさ。少年航空兵は自分からいい出して志願したらしいが、今頃この辺の空で——やってるかも知れねえ。俺もそういう子だから、いっそ……」
「そういうのはねえ。死んだ方がいいということはねえ。お前は悪い奴だ。罰が当るぞ」
「そうさ、だからこれからフィリピンで野垂れ死するところさ」
鼻を鳴らす音が聞えた。
「まあ、泣くな。しようがねえさ」
「お前みたいな親がいるとすると、俺がこんな目に会うのもあたり前だ。俺のおやじも阿母も、俺が死ねばいいと思ってるかも知れねえ」
「まあ、そうとも限らねえ、泣くなっていうのに。死ぬなお前ばかりじゃねえ」
「俺あお前がいやになった」
「ふん、いやなら勝手にしやがれ」と安田は打ち切るようにいったが、少したって「だから、あいつと一緒に死ぬっていってるじゃねえか」と呟いた。
「あーあ」と誰かが溜息をした。私はこれほど単純な絶望の声を聞いたことがない。それはかなり太くて低い、しかし響のない乾いた声で、長く後を引いた。七人の仲間の誰が放った声か、推測することは出来なかった。それほどそれは人間の声と似ていなかったのである。
「まあ、な」と安田の声がまた聞えた。「まあお前もなるたけ俺のそばにいるがいい。出来るだけなんとかしてやるからな」
「ほんとか、おっさん。でも……」
「でも、なんだ」
「でも、なんだかお前は怖えな」
「一緒にいろ。でも働くんだぞ。明日は医務室へ行って、何でも手伝うんだ、水汲みでも、飯盒洗いでも、なんでもいい。何かやりさえすりゃ、たとえ芋の一本でもくれるんだ。わかったか」
「わかったが……出来るかな、俺みたいな脚気に」
「何でもいい、やるんだ、馬鹿」
そしてあとはひそひそ話となった。こうして私はこの若い気の弱い女中の子が、シニックな女中強姦者の養子となったのを了解したが、この動物的な軍隊の余剰物の中に、まだこういう劇が行われる余地があるのを意外に思った。私はこれからまだ悪化すると思わねばならない状況の裡で、この速成の親子の辿る運命を知りたいと思い、実際奇妙な偶然からその目撃者となることになったが、しかしそれは何という結末であったろう。
私は眠りに入ろうとしていた。様々な意味で多事であったこの日一日のことが思い出された。私を打った分隊長の厚い唇、給与掛曹長の細い眼、慴えたような僚友の眼が、次々に現われては消えた。それは私の側からは何の感情も伴わない純粋な映像であった。戦場にあっては、或いはこれが最も正しい、ものの見方であるかも知れない。
やがて野火の映像が現われた。それは視神経が暗い瞼の裏に放射する光の文様に、私の半ば眠った脳髄の恣意が附与するところに従って、自由な変形を受けていた。芝居の書き割りのような乾いた空を背景に、川向うの野火の煙は、出発する旧式の機関車が吹き出す蒸気のように、ポッポと断続して騰っていた。丘の上の煙は、折釘のように直角に折れ曲って、折れた先は磁針のように、絶え間なく不安に揺れた。私は無論怖れてはいなかった。
私はこの幻像が眠りの前奏曲をなすものであることを知っていた。そして実際まもなく眠りに落ちた。
物音によって目を覚した。あたりは暗かった。罵る声に混って濡れた布を叩くような音が、医務室から聞えて来た。私はやがて、それが頬打の音であるのを意識した。
医務室の扉が開かれ、蝋燭の光が一瞬夜に溢れた。一つの人影が突き出されて来た。前額部に角のような瘤が出ているのを私は認めた。例の芋一本の兵士が食糧を盗みに入り、発見され、制裁を受けたのは明白であった。(明日俺達はみんな追払われるかな)と思いながら、私は再び眠りに落ちた。