幾日かがあり、幾夜かがあった。私を取り巻く山と野には絶えず砲声が響き、頭上には敵機があったが、私は人を見なかった。
私がさまよい込んだ丘陵地帯は、ブラウエン、アルベラ、オルモックの各作戦地区を頂点とする三角形の中心に近く、いわば颱風の眼のように無事であった。
或る明方北西に砲声が起り、青と赤の照明弾が、花火のように中空に交錯するのが見られた。その夜頂上から見渡すと、輝かしい燈火が、見馴れたオルモックの町の輪郭を描いていた。西海岸唯一の友軍の基地にも、米軍が上陸したのである。
糧食はとうに尽きていたが、私が飢えていたかどうかはわからなかった。いつも先に死がいた。肉体の中で、後頭部だけが、上ずったように目醒めていた。
死ぬまでの時間を、思うままに過すことが出来るという、無意味な自由だけが私の所有であった。携行した一個の手榴弾より、死もまた私の自由な選択の範囲に入っていたが、私はただその時を延期していた。
熱帯の陽の下に単調に重畳した丘々を、視野の端に意識しながら、私は無人の頂上から頂上をさまよった。
草の稜線が弧を描き、片側が嶮しく落ち込んでいるところへ出た。降りると、漏斗状の斜面の収束するところに木が生え、狭い掘れ溝が、露出した木々の根の間を迂まわっていた。空谷はやがて低い崖の上で尽き、下に水が湧いていた。
崖の底の一つの穴から、吹き出すように湧いた水は、一間四方ほどの澄んだ水盤を作っていた。私は岸に伏し、心行くばかりその冷い水を飲んだ。
水は細い瀬を作って、次の水盤に移り、また瀬となって、流れ出していた。小さな道が流れに沿って下っていた。私は降りて行った。流れが漸く音を立てるあたりで、道はそれを横切った。
流れは暗い林に入り、道は林を迂廻した。林の奥で滝音が近づき、後になった。不意に水は林を破って迸り、再び道に沿い出した。
前方に竹が密生していた。真直な幹をすかして陽光が輝き、崖に出た。新しい谷が横わっていた。広い水が礫の上を流れていた。私が伝って来た細い流れは、竹林の切れ目から、早瀬となって落ち込んでいた。
河原には日が照り、嶺線に切り取られた輝かしい空を、雲が渡った。岸の斜面に竹が盛んに生い繁って、柔かな緑を風に揺っていた。雨季の増水の名残であろう、流木が砂と礫の上に干いていた。その間に、わずかに踏み固められた一条の道について、私は降りて行った。
川は気紛れに岸に当って淵を作り、または白い瀬となって拡がった。日暮に暗い淵の蔭で河鹿が鳴き、夜明には岸の高みで山鳩が鳴いた。
道は或る時、岸に登り、蔓草を縦横に張りめぐらした、叢林の中を行った。夜、林に寝ると枕の土が青白く光った。掬って見る掌の上でも、蛍のように光り続けた。それはいつの時代にか、この場所で死んだ動物の体から残った、燐であろうと私は空想した。
或る時、川は岸からかしいだ大木の蔭で、巨大な転石の間を早瀬となって越し、渦巻いていた。私は靴を脱し、足を水に浸した。足の甲はいつか肉が落ち、鶏の足のように干からびて、水に濡れにくかった。手の皮膚も骨に張りつき、指の股が退いて、指が延びたように見えた。
死は既に観念ではなく、映像となって近づいていた。私はこの川岸に、手榴弾により腹を破って死んだ自分を想像した。私はやがて腐り、様々の元素に分解するであろう、三分の二は水から成るという我々の肉体は、大抵は流れ出し、この水と一緒に流れて行くであろう。
私は改めて目の前の水に見入った。水は私が少年の時から聞き馴れた、あの囁く音を立てて流れていた。石を越え、迂回し、後から後から忙しく現われて、流れ去っていた。それは無限に続く運動のように見えた。
私は吐息した。死ねば私の意識はたしかに無となるに違いないが、肉体はこの宇宙という大物質に溶け込んで、存在するのを止めないであろう。私はいつまでも生きるであろう。
私にこういう幻想を与えたのは、たしかにこの水が動いているからであった。