到頭丑松は言はうと思ふことを言はなかつた。吉田屋を出たのは宵(よひ)過ぎる頃であつたが、途々それを考へると、泣きたいと思ふ程に悲しかつた。何故、言はなかつたらう。丑松は歩き乍ら、自分で自分に尋ねて見る。亡父(おやぢ)の言葉も有るから――叔父も彼様(あゝ)忠告したから――一旦秘密が自分の口から泄(も)れた以上は、それが何時(いつ)誰の耳へ伝はらないとも限らない、先輩が細君へ話す、細君はまた女のことだから到底秘密を守つては呉れまい、斯(か)ういふことに成ると、それこそ最早(もう)回復(とりかへし)が付かない――第一、今の場合、自分は穢多であると考へたく無い、是迄も普通の人間で通つて来た、是(これ)から将来(さき)とても無論普通の人間で通りたい、それが至当な道理であるから――
種々(いろ/\)弁解(いひわけ)を考へて見た。
しかし、斯ういふ弁解は、いづれも後から造(こしら)へて押付けたことで、それだから言へなかつたとは奈何しても思はれない。残念乍ら、丑松は自分で自分を欺いて居るやうに感じて来た。蓮太郎にまで隠して居るといふことは、実は丑松の良心が許さなかつたのである。
あゝ、何を思ひ、何を煩ふ。決して他の人に告白(うちあ)けるのでは無い。唯あの先輩だけに告白けるのだ。日頃自分が慕つて居る、加(しか)も自分と同じ新平民の、其人だけに告白けるのに、危い、恐しいやうなことが何処にあらう。
『どうしても言はないのは虚偽(うそ)だ。』
と丑松は心に羞(は)ぢたり悲んだりした。
そればかりでは無い。勇み立つ青春の意気も亦(ま)た丑松の心に強い刺激を与へた。譬(たと)へば、丑松は雪霜の下に萌(も)える若草である。春待つ心は有ながらも、猜疑(うたがひ)と恐怖(おそれ)とに閉ぢられて了(しま)つて、内部(なか)の生命(いのち)は発達(のび)ることが出来なかつた。あゝ、雪霜が日にあたつて、溶けるといふに、何の不思議があらう。青年が敬慕の情を心ゆく先輩の前に捧げて、活きて進むといふに、何の不思議があらう。見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は蓮太郎の感化を享(う)けて、精神の自由を慕はずには居られなかつたのである。言ふべし、言ふべし、それが自分の進む道路(みち)では有るまいか。斯う若々しい生命が丑松を励ますのであつた。
『よし、明日は先生に逢つて、何もかも打開(ぶちま)けて了はう。』
と決心して、姫子沢の家をさして急いだ。
其晩はお妻の父親(おやぢ)がやつて来て、遅くまで炉辺(ろばた)で話した。叔父は蓮太郎のことに就いて別に深く掘つて聞かうとも為なかつた。唯丑松が寝床の方へ行かうとした時、斯ういふ問を掛けた。
『丑松――お前(めへ)は今日の御客様(おきやくさん)に、何にも自分のことを話しやしねえだらうなあ。』
と言はれて、丑松は叔父の顔を眺めて、
『誰が其様(そん)なことを言ふもんですか。』
と答へるには答へたが、それは本心から出た言葉では無いのであつた。
寝床に入つてからも、丑松は長いこと眠られなかつた。不思議な夢は来て、眼前(めのまへ)を通る。其人は見納めの時の父の死顔であるかと思ふと、蓮太郎のやうでもあり、病の為に蒼(あを)ざめた蓮太郎の顔であるかと思ふと、お妻のやうでもあつた。あの艶を帯(も)つた清(すゞ)しい眸(ひとみ)、物言ふ毎にあらはれる皓歯(しらは)、直に紅(あか)くなる頬――その真情の外部(そと)に輝き溢(あふ)れて居る女らしさを考へると、何時の間にか丑松はお志保の俤(おもかげ)を描いて居たのである。尤(もつと)もこの幻影(まぼろし)は長く後まで残らなかつた。払暁(あけがた)になると最早(もう)忘れて了つて、何の夢を見たかも覚えて居ない位であつた。