たとえば、アナウンサーが初詣《はつもう》での人の群に質問をする。
「なにをお祈りしましたか」
すると、答えて、
「そうですね、ヤッパリ……一家が安全でありますように」
「毎年いらっしゃいますか」
「そうですね、ヤッパリ……近くに引っ越して来たものですから」
熱戦のすえ勝った相撲取《すもうと》りに質問すれば、
「そうですね、ヤッパリ……早く上手が取れたから」
となり、巨人軍の原選手に抱負を尋ねれば、
「そうですね、ヤッパリ……三割は打ちたいですね」
と答える。
�そうですね、ヤッパリ�は、昨今とてもよく耳にする慣用句だ。私自身もきっと使っているのだろうが、他人の会話の中で二、三回繰り返されると、相当に耳障りなものである。
�そうですね�のほうは相手の質問を軽く受けているだけで、ほとんど意味がない。�はあ�とか�ええ�とか�うん�とか、そんな言葉に替えてもいいのだが、それではちょっと短か過ぎる。受け言葉が短いと思考の時間も短くなる。
そこで少し間を持たせるために�そうですね�と、いくぶん長いほうが便利なのだろう。
では、次に�ヤッパリ�のほうはどうなのか。�ヤッパリ�は�やはり�の促音形で、辞書を引くと�やはり�の意味として�もとのまま。前と同様に。なお�と記してある。
しかし、実際の用例を考えてみると、それほど単純ではない。
たとえば、今、例にあげた「ヤッパリ一家が安全でありますように」の�ヤッパリ�は、�もとのまま�でもなければ�前と同様に�でもない。�なお�でもない。その他の用例も同様である。
こう考えてみると、この頃《ごろ》やたらに使われる�ヤッパリ�には、�思った通り�という意味があることに気がつく。
だが、お立ちあい、この�思った通り�も単純ではない。
「そうですね、思った通り、一家が安全でありますように」
「そうですね、思った通り、近くに引っ越して来たものですから」
と言い換えてみても、あまりしっくりとはしない。だれが�思った�通りなのか、あまりはっきりしないのである。
くわしく説明してみれば、�ヤッパリ�の内容は�みなさんもおそらくそんなふうに考えているのではないかと思うけれど、そう考えた通りに�といった感じなのだが、�みなさんがそんなふうに考えている�と思うのは話し手の勝手な想像であって、本当にみなさんがそう思っているかどうかは、さして重要な問題ではない。時には、自分だけがみなさんの代表になって、そう考えている場合もあるし、だれもそんなこと考えていないような場合に使われることさえある。
いずれにせよ、みなさんがどう考えているかという点は、はなはだ曖昧《あいまい》なものだからヤッパリが正反対の場合に用いられても、ちっともおかしくない。
たとえば、
「お父さんはりっぱな社長さんだったが、息子さんもヤッパリ偉いね」
「お父さんはりっぱな社長さんだったが、息子さんはヤッパリ駄目だね」
などの用例はどうであろう。
前の文章のほうが普通な表現だが、後のほうの言いかたもけっして使われないものではない。
お父さんが偉い社長だと息子も偉い社長になる——これは遺伝的に一応そう考える根拠がある。
だが、お父さんが偉い社長であったにもかかわらず、ドラ息子がとてもそのレベルに及ばない、これも日常よく見かける風景である。むしろ現実には、こちらのケースのほうが多いのではあるまいか。
どちらも�みなさん�がそう考えていてもいいことだから�ヤッパリ�が使えるのである。
というわけで�ヤッパリ�を使うと、�これから申しあげることは、みなさんも充分お気づきでしょうが、あえて申しあげると�といった意味が漂い、その結果、話し手がいかにも謙虚であるように響く。このへんが�ヤッパリ�の多用される理由であろう。
さらに言えば、日本人は他人と同じ意見であることを好む民族である。この点、フランス人などとはおおいにちがっている。フランス人のおしゃべりは有名だが、あの饒舌《じようぜつ》の中には�オレの考えがどれほど他人と異なっているか�といった内容の自己主張が相当に含まれている。日本人は�私もあなたとおんなしよ�と告げあって安心するために、会話をしているようなところがある。
�ヤッパリ�は今述べたように�あなたもそう考えているでしょうが、私もまた�という意味を含んでいるのだから、こうした日本人の感情によく適合している、と言ってよい。
こんな事情もあって、日常会話でよく利用されるのだろうが、あまり多く使われるのは�ヤッパリ�耳障りですな。