「私の苗《みよう》字《じ》は黒田と言いますが、小説を読んでいると、黒田というのはたいてい悪人役です。やっぱりイメージがわるいのでしょうか」
大まじめな顔で読者に尋ねられ、私は困ってしまった。
「私の小説にも出て来ますか?」
すぐに思い出すものは……ない。
「いえ。先生の作品では、まだ見ませんけれど」
彼は彼なりに気にかけているらしい。
「ほかのかたがどういうつもりで登場人物の名前をつけているか、わかりませんけど、そうですね、やっぱり名前の持つイメージってのはありますね。黒田はわるい役が多いですか。そうかなあ。わるいというより力強い感じ。やり手の上役とか、腕ききの刑事とか、そんなときにつけたくなりますね。私はとくにわるいイメージは持ちませんけど」
と、お茶を濁した。
登場人物が自分と同じ苗字だったりすると、読み手は、特別な思い入れを抱いてしまうものなのだろうか。私には実感がつかめない。
私の名は、本名である。日本中に何人もいる苗字ではない。成人で二、三十人くらい。全部親戚である。今までそうでない人にひとりとして会ったことがないし、聞いたことがないのだから……。九十九パーセント以上の確率で「親戚以外はいない」と断言してよい。東京都二十三区の電話帳には私しか載っていない。
こういう苗字は、まあ、小説には登場しない。登場したとすれば、それは作者のほうになにかしら意図があってのことだろう。この苗字の主人公が殺されたら、
——ああ、俺、あの作家に恨まれているんだな——
と、これは推測してもよいだろう。
しかし、鈴木だの、田中だの、高橋だの、黒田だってそう深く考えることはあるまい。小説家のほうは、そのときの思いつき、苦しまぎれ、それほど深い考えがあって登場人物の名前をつけているわけではない。
机の上に同窓会の名簿が立ててある。私の場合はこれを見る。
名前なんてどんな名前をつけたってよさそうなものだけれど、実際命名するとなると結構むつかしい。知人の名はやめておこう。特殊な名前も避けたい。中《なか》曾《そ》根《ね》さんだの、掛布さんだの、べつなイメージが加わってよくない。
理由はよくわからないが、きらいな名前というのもある。とりわけむつかしいのは、姓と名との組み合わせだろう。人工的な名前はどうもしっくりとしない。姓と名のあいだに断絶があるように思えて、
——こんな名前、いかにも嘘《うそ》っぽいなあ——
と、われながら鼻白んでしまう。姓と名と、べつべつに見ているぶんにはさほどおかしくはないけれど、繋《つな》げてみるとへんてこになってしまう。
日本の国民的英雄と言ってよいほどの、車寅次郎さん、これはわるくない。現実にこの名前を小説に使うかどうか……なんの先入観もなく与えられたとしたら、
——サラリーマンじゃちょっと無理かな。職人さん。五十歳はすぎてないと——
と思うだろう。
その限りではとくにわるい名前ではないけれど、その妹のさくらさん。あの人は結婚前は当然〓“車さくら〓”という名前だったはずである。語呂もわるいし、印象も具体的すぎて滑稽でさえある。私はけっしてつけないだろう。
あれこれ名前を考えていて、
——うん、これで行こう——
きめたところで、もう一度よく検討をする必要がある。
ミステリーのヒロインに赤木雪子という名を与えて六十枚ほどの短篇を書きあげた。私が国立国会図書館をやめ、小説を書き始めて間もない頃だった。
原稿を編集部に渡し、著者校正のためのゲラが戻って来て、これに赤字を入れて返す。そのあとで、ふと気がついた。
図書館時代の上司に青木恭子さんがいて、この〓“恭子〓”は、なぜか〓“ゆきこ〓”と読む。
〓“あおき・ゆきこ〓”と〓“あかぎ・ゆきこ〓”、この符合性を感じない人はいないだろう。ヒロインは殺人を犯す役どころ。しかも小説の舞台は図書館だった。
上司の名前が〓“青木雪子〓”であったならば、私はいくらなんでも〓“赤木雪子〓”とはつけない。〓“恭子〓”を〓“ゆきこ〓”と読むことを忘れていたのである。痛くない腹をさぐられるのはつらい。あわてて印刷所に電話をかけた。この段階まで来て大幅な修正は、歓迎されない。つまらないまちがいも起きる。
「すみません。赤木とあるのを全部宮木に変えてください」
なんとか間にあって誤解を避けることができた。
ところが実際に雑誌が送られて来たのを見ると、なおし忘れが二か所もある。ヒロインは赤木のままで二度も出て来る。今〓“つまらないまちがいが起きる〓”と書いたのは、たとえばこういうことだ。
読者はさぞかし驚くだろう。
今までに一度も出て来なかった人が、殺人現場になんの説明もなく急に登場するのだから……。これはよくある失敗の一つである。
それを避けるためには、名前はあとでなおしてはいけない。初めにちゃんと考えてつけること。
——あとで変えればいい、とりあえず浦島太郎と山田邦子でいいじゃないか——
などとやっておくと、ろくなことがおきない。
そう言えば、小説雑誌を読んでいて、もう一つ、ときおり目にするまちがいは、小説の中身と挿し絵がちがっていること……。
主人公は〓“ダイヤルをまわした〓”と書いてあるのに、絵のほうはプッシュフォンである。〓“長い髪を束ねている〓”はずなのに、絵の女性はショートカットである。
——この画家、ろくに作品を読まずに絵をかいたな——
と読者はお思いだろうが……残念でした。
小説家の原稿が遅れ、
「絵のほうは、絵組みでかいてもらってくださいよ。うん、若い女が電話をかけてる場面……。適当でいいから」となる。
絵組みというのは、おおまかな説明だけを聞いて画家がそれにあわせて絵をかくこと。本文を見てないから細かいところがちがってしまう。その可能性が大きい。わるいのはたいてい小説家のほう。五対一くらいの賭《か》け率でそうなのである。