ボーナスの季節になると鮮明に思い出すことが一つある。二十数年前、友人のO君が、
「ボーナスが出た。飲みに行こう」
「いくら出た?」
「手取りで十二万円とちょっと。まあ、こんなもんだな」
「うん」
その金額は公務員の私よりずっと多かったが、世間の相場から言えば、上の下くらいではなかっただろうか。手もとの資料で見ると、公務員の初任給が一万数千円の頃のことである。
行った先はO君が根城にしている四谷のバーだった。O君は飲んべえだから、私は、
——おそらく相当のつけがたまっているぞ——
と想像していた。
私のほうは人間が小物だから、借金があまり好きではない。酒場のつけなどは、一、二カ月くらいのうちにあわてて清算する。
O君もほかの面ではとくにずぼらというほどのこともないのだが、飲みたい酒の量に比べると手持ちの金子が常時少ないほうだから、どうしてもつけがたまる。四谷のバーは、とりわけそれがひどかった。
飲むほどに酔うほどにママが前に来て、
「いらっしゃいませ」
「ボーナスが出た。つけを払う」
「あら、うれしいわ」
「じゃあ、これだけ」
O君がポケットから出して支払ったのは十万円の金額だった。
「こんなに……」
ママは絶句し、つぎに見る見る表情を変えた。
その歓喜の表情が忘れられない。まったくの話、歓喜を通り過ぎ、感動というか感激というか、払ってくれた人の人格に対する尊敬までが含まれているように見えた。
「わるいわ」
「いいよ。まだ少し残ってるだろ」
「あと……二万円くらい」
「うん。いずれな」
「ありがとうございます」
深々と頭を垂れた。
考えてもみよう。サラリーマンなら、だれでも実感できることにちがいない。暮れのボーナスを十二万円もらった。そのうち十万円を、その夜のうちに一つの酒場にポンと支払うことが、どれほど度胸のいることか……いや、まあ、度胸という言葉を使うほど大げさな出来事ではないかもしれないが、簡単にはできないことではある。ほとんど見ないことである。O君はほかにも若干の支払いがあるだろうし、ボーナスは多分これでおしまい、ほとんどなにも残らない……。
——偉いもんだなあ——
呆《ぼう》然《ぜん》として眺めていた。古くから知っている友人ではあったけれど、あらためてO君の人柄について感じ入ってしまった。
——待てよ——
もちろんもう一つの考えがすぐに脳裏をかすめる。
私はO君ほどは飲まないけれど、そこそこには飲む。O君がどのくらいの期間をかけて現在の借金を作ったか知らないけれど、私だって一年、二年のスパンで考えれば、十万円近く飲んでいる酒場がないでもなかった。
ただ私はその都度払う。少なくとも一、二カ月以内に清算をしている。どっちが店にとってよい客であるか。
答は考えるまでもない。ママとの話では、O君はまだ二万円くらいのつけを残しているふうではないか。これだけだってりっぱな借金だった。
その夜、終始O君に対して愛想のよかったママを見ていて、私はなんとなく、
——わりがあわないなあ——
と思った。
これからは私も飲み代をすぐには支払わずにおいて、そのぶんを貯金しておき、頃あいを計り一度にドッと払ってやれば、あんなすばらしい笑顔にめぐりあえるのだろうか。尊敬までしてもらえるのだろうか。
しかし、そのためには、何度も何度もつけの積み重ねをやって、苦い思いを体験しなければなるまい。やはり小物にはできない技なのだろう。
人間の行動が相手に与える影響には、理性効果と感情効果とがある。
前者は相手が理性で判断してどう評価するかということであり、後者は感情で受け止めてどう感ずるかということである。
厳密に区分できることではあるまいが、今のケースなどは一つの典型を示している。
理性的に判断すれば、このママはちっとも喜ぶことなどないのである。この店にもきっと通って来ているであろう私のような客にこそママは感謝をすべきなのである。
おそらくそちらにもちゃんと敬意は払っているのだろうけれど、人間には感情というものがあるから、これがまたべつな結果を示す。
ポンと十万円。ボーナスのあらかた……。簡単にできることじゃないのに……。助かったわ。一瞬のうちに薔《ば》薇《ら》色の感情が頭の中を走りぬけ、理屈はともかく欣《きん》喜《き》雀《じやく》躍《やく》とした表情が顔に浮き出てしまったのだろう。
理性的に考えればO君は当たり前のことをやっただけだが、軽々にやりおおせることではない。ボーナスについて言えば、奥さんという生活のパートナーによってでさえ、あらかた取られるのは、くやしいではありませんか。まして他人に……。
社会生活を続けて行くうえで、なによりも大切なのは理性効果でポイントをあげることのように思われるけれど、感情効果のほうもけっして馬鹿にはできない。理性効果は、ゆっくり考えたうえで作用するものだし、感情効果のほうは、なにはともあれ、その瞬間に一定のインパクトを与えてしまう。
たとえば、恋人と待ちあわせるとき。時間通りに現われる人が一番りっぱな人のはずだが、現実には少し遅れ、相手が、
——もしかしたら来ないんじゃないかなあ——
不安が募り始めた頃に小走りにやって来て「ごめんなさい」などと言われると、
——ああ、よかった——
となり、なんでも許したくなってしまう。
同様に男女の仲でも、一方は律義に、几《き》帳《ちよう》面《めん》に行動しているのに、
「わるい人じゃないんだけど、いつも型通りで、つまんないのよね」
などと言われてしまう。
理性効果はだれでも計れる。人間関係の巧みな人というのは、感情効果においてすぐれている人のような気がしてならない。