十数年前、五反田の小さなマンションに住んでいた頃、年の暮れになると、妻が、
「お風呂場のお掃除をお願いするわね。普段はあんまり丁寧にやってないから……はい、これが洗剤」
と、にこやかにほほえみ、バスルームの清掃が私の割当てだった。
たかが二メートル立方くらいの空間。どう磨いたってたかが知れている。子どもの頃はもっといろいろな掃除を命じられていた。
「うん、うん」
二つ返事で引き受けたのが甘かった。そのバスルームは、床と、三つの壁面にタイルが張ってある。二センチ四方くらいの小さなタイルがぎっしりと……。そのタイルのつなぎめの部分を目地と呼ぶことをあの時はじめて知ったのだが、これがところどころ薄汚れている。
スプレイ式の洗剤を吹きつけ、少し時間を置き、歯ブラシでこすると、アーラ、不思議、まるで新装直後のように白くなる。汚れをきれいにするという作業には生理的快感がともなうものだ。
——ざまみろ。こんなにきれいになったぞ——
と思ったのも、つかの間。まっ白になった状態を基準にして眺めれば、どこもかしこも汚れている。どの目地も薄黒い。歯ブラシでこすれば、さほどの苦労もなくきれいになるのだが、目地は意外にたくさんある。
考えてもみよう。二メートル四方の壁に、二センチのタイルを埋めつくすとなると、目地は縦に百本の線、横に百本の線、線の長さはそれぞれ二メートルだから、合計四百メートル。これが床と三つの壁に張ってあるとして総長千六百メートル。
現実にはガラス窓の部分やコンクリートのままになっている部分もあって、この半分くらいの見当……。しかし、それでも八百メートルはある計算。歯ブラシでこすりながらたどるとなると、けっして楽な作業ではない。
——なまじまっ白になるからいけないんだ——
と気がついた。
子どもの頃の掃除はもう少し鷹《おう》揚《よう》なものだった。雑《ぞう》巾《きん》で一《ひと》拭《ふ》きすればいい。木造建築に煤《すす》がこびりついた状態はそう簡単に汚れの落ちるものではない。強力な洗剤もなかったし、どう磨いてみても、新築同様になることはありえない。ゆえに雑巾の一こすりで許されたわけである。
「あら、本当にきれいになったわねえ」
白く、明るくなったバスルームを見て、妻は喜び、それが私の毎年の仕事となった。
——またあれをやるのか——
正月を前にして、ちょっとしんどい。それをやらなければ正月はやって来ない。近所に住む義兄は金融機関に勤めていた。三十一日の大《おお》晦《みそ》日《か》まで勤務がある。
——あっちのほうがいいなあ——
少しうらやましかった。
青山のマンションへ移り、ここはユニット式のバスルーム。実際にどう作るのかは知らないけれど、合成樹脂の一枚板に凹《くぼ》みをつけ、湯船を作り、立方体に仕上げ、そのままスッとビルの各階にはめ込んだようなもの。中から見ればどこにもつぎめはないし、湯船も床も天井も壁も、みんな同じ材質。窓もない。
殺風景このうえないバスルームだが、掃除はひどく楽だった。スプレイ式の洗剤でシューッと濡《ぬ》らして、あとはシャワーでザザーッと洗い流せばいい。雑巾で拭《ぬぐ》えば、さらに上等。もうこれ以上の作業はありえない。
「お風呂場、お願いしますね」
「はい、はい」
今度は実に気分爽《そう》快《かい》であった。
その後、高井戸に家を建てることになり、私は断固青山方式のバスルームを主張したが、設計者が、
「あれは味気ないですよ。もう少し気分のいいバスルームにしましょう」
と譲らない。
家というものは……建てた人はみんな異口同音に訴えている。
「だれの家を建てているんだ!」
と設計者にむかって叫びたくなるときがきっとある。
私はユニット式バスルームがいかに掃除に便利なものか、縷《る》々《る》説明をくり返したが、設計者は、
「私がお掃除に来てあげますから」
と、すてきなタイルの壁になってしまった。
もう建築して四年たったが、いまだに彼は掃除に来てくれない。
女性の家事労働には、育児、料理、掃除、洗濯、この四つの柱がある。
育児はあまりにも大きなテーマだからここでは述べない。
残る三つのうち、洗濯は洗濯機の発達とクリーニング業の普及により、ずいぶん楽になった。ことのよしあしはともかく、汚れたら捨てるという手段もある。
料理は楽しみの一つともなったし、ファミリー・レストランの流行を見れば、この労働もずいぶん軽減されたと言ってよいだろう。
厄介なのが掃除である。
「女に楽をさせると、ろくなことがないぞ」
という意見も聞かないではない。
PTA活動に首をつっ込んで現場の先生を悩ませる。さして必要でもないパートタイムに励んで、ますます家事をおろそかにする。カルチャー教室に通って油を売る。浮気に走る……。
にがにがしい事件がないでもないが、私はやっぱり余暇を持つのはよいことだ、女性もおおいに楽をすべきだと考えている。家事が楽になり、その結果として生じた余暇をどう使うか、これはもう一つの問題である。ごっちゃにしてはいけない。余暇そのものの増大はけっして悪ではない。人類の文化は、ずっと私たちを労働から解放することを考え続けて来た。これを止めることはできないし、止める必要もない。女性を除外する理由もないし、だれにもそんな権利はあるまい。
冒頭にも述べたように、掃除の道具は……たとえば洗剤などが改良されても、掃除はあまり楽にはならない。それを使ってきれいになりすぎると、かえってきれいにするために手間ひまがかかる。妥協はむつかしい。
掃除のやりやすい建築構造、掃除の楽な設計、建築材料、そういう視点は現代の建築学に組み入れられているのだろうか。年の瀬の風呂掃除は、私に思いがけないことを教えてくれた。美麗な住環境や建造物を見るたびに私は思うのである。
——掃除はどうかなあ——