おめかけのおつな病いは寝小便
さて、弟を二本差しにしたお妾は、通りすがりに殿様のお目にとまった裏長屋の孝行娘で、プロの妾ではない。しかしもちろん初手からそれをなりわいとする�愛人バンク�の会員がいた。連中は旦那を取っかえ引っかえしないと、前金の支度料が目減りするので、悪知恵をはたらかしたものだ。その代表の「小便組《しようべんぐみ》」について申しあげよう。
江戸はなにしろ参勤交代《さんきんこうたい》で、全国から臨時やもめの侍どもが集まる所なので、めかけの需要が多かった。大名は最前も申しあげたとおり、江戸屋敷に奥方がひかえているから、さし当たって不便はないし、下級侍は五、六十カ所もあった赤線や青線で、安直にすますから、これもめかけの必要はないが、五百石、千石ととる部課長級の侍は、体面上、めかけを持つより仕方がない。そこで江戸の文化がもっとも栄えた宝暦ごろから明和・安永のころにかけて、小便組と称するたちのよくない、しかしちょっとユーモラスなプロフェショナルが活躍したのである。
小便組というのは、前金でお手当を取っておいて、適当な時機を見はからって寝小便をし、おはらい箱になろうという寸法のめかけである。ひとりで寝ていても、承知の上で寝小便をやらかすのはむずかしいのに、旦那といっしょに寝ていてやるのだから、大胆なもんだ。
消渇《しようかち》の気味かと殿も初手《しよて》はきき
消渇というのは、尿《によう》をもらす病気で、糖尿病や女子の淋病などをいう。旦那の方だって、最初の一、二へんはまさかと思うから心配して、
——消渇の気味なら、さっそく医者にかかったらよかろう。
ということになるわけだ。
そんな人のよい旦那では、寝小便もききめがないというので、
小便は古いとめかけ泡をふき
「てんかん」で泡をふいてそっくりかえったら、いくら人のよい旦那でも、という剛の者もいたのである。
くれぬならかのをしやれと妾《しよう》の母
しかし、若い女性に、それほどの悪知恵や度胸があるはずはない。たいていは遣手《やりて》婆みたいなステージ・ママか、ヒモがついていて、暇をくれないなら小便するか泡をふけ、とけしかけたのである。しかし中には、
小便もこの屋敷ではこらえる気
たれながして、そこそこにおはらい箱になる予定で奉公に上がったのだが、旦那というのが男前で、やさしくて、例の方も過不足なく、しかも金ばなれがよいとなっては、小便どころではない。いついつまでもと打ちこんでしまう場合もあったわけだ。
しかし江戸時代の妾は、お囲い者とも言って、アマであろうとプロであろうと、公認された存在であった。明治になっても当初はそうであった。明治三年十二月に発令された『新律綱領《しんりつこうりよう》』によると、妻妾ともに二等親で、ちゃんと戸籍に親族として記載されているからである。ただし妻の父母は五等親だが、めかけの父母は法的地位をみとめられていない、というほどの相違はあった。この時、めかけの地位を妻と対等にしたのは、江戸以来の慣習にしたがったわけだが、実は明治新政府の役人になった高級侍どもが、それぞれ慣例にしたがってめかけをたくわえていたので、急には、おまえは、と格下げできなかったのであろう。
ところが、キリスト教の解禁とか自由民権思想とか、時代の流れにおされて、明治十五年から、旦那とめかけの関係は、一定の労務に対して報酬を支払う雇用関係に格下げされて日陰の花的存在となり、サラ金業者の妾のお玉が、医科大学生に失恋するという、森鴎外の長編小説『雁』を生むこととなった。しかし戦後の現代は、実質的にはパトロンと愛人の関係なんだから妾にはちがいないのだが、暗いイメージがまったくない。家が貧しいばっかりに、といった新派悲劇調がなくなって、趣味と実益のお付合いということになったからだろう。