木曽殿とうしろ合わせに巴《ともえ》すね
木曽の風雲児、頼朝の従弟《いとこ》の義仲《よしなか》は、頼朝の挙兵に呼応して兵をあげ、倶利伽羅《くりから》峠で牛の角に白刃を結わえつけ、尻尾に葦を結んで火を付けて放つ「火牛の計」によって、押しよせた平家の大軍を破って、いっきょに京都へなだれこみ、平家一門を追っぱらった。だが、なにぶん山家そだちのことなので乱暴ばかりはたらき、頼朝の命令にもしたがわなかったので、とうとう義経らのために、近江《おうみ》の粟津《あわづ》の松原で攻めほろぼされてしまった。
この武骨者の英雄も、陣中つねに巴《ともえ》と山吹《やまぶき》という二妾をともなっていた。山吹の方は病気になって京都にとどまっているから、あまり勇婦ではなかったらしいが、巴の方は最後までいっしょに戦った。勇婦中の勇婦だ。しかも女相撲《おんなずもう》まがいの大女というわけでなく、色白の美人で、甲冑《かつちゆう》に身をかためて荒馬を乗りまわし、いかなる荒武者も歯が立たなかったというのだからすばらしい。
しかし、そこはそれ女のことだから、やき餅をやかぬわけにはいかず、義仲が山吹の陣屋へ出かけたあくる晩は、すねて背中あわせという場面もあったにちがいない。もっともこれは、木曽塚のかたわらに葬られた芭蕉を悼んだ大津|義仲寺《ぎちゆうじ》の句碑「木曽殿と背中あはする夜寒哉」(又玄)のもじりだ。
しかし、とかく、すねたあとは、古今東西はげしいもんだ。
あれいっそもうに義仲動かれず
なにしろ巴は、義仲最後の合戦に、武蔵《むさし》の国の住人|御田《おんだ》の八郎師重《はちろうもろしげ》という大力の剛《ごう》の者を、
「わが乗ったりける鞍《くら》の前輪に押しつけて、ちっとも動かさず、首ねじきって捨ててんげり」
という大力だ。その彼女に、アレいっそもうと、無我夢中で抱きしめられたら、いくら義仲でも身動きのできるわけはない。それくらいならまだいいが、
死にますと言うと義仲ゆるせ死ぬ
抱きしめられて木曽殿|度々《どど》気絶
おなじ死ぬでも、ほんとに息がつまって死ぬんではかなわない。
木曽を抱きしめ緋縅《ひおどし》をねだるなり
やっぱり巴も女の子だから、ぶっそうな鎧《よろい》をねだるにしても、はなやかな緋縅をねだるところはかわいいが、「抱きしめて」というところがおかしい。なにしろいやだなどといおうものなら、息の根がとまるという抱きであるから、色っぽいどころの騒ぎではない。
ちゃうすかと思えば巴首をかき
悪いことよしなと巴首をぬき
さて、これがいよいよ最後という時になって、義仲もさすがは武人、最後のいくさに女を連れていたといわれるのもくやしいから、どこへでも落ちて行け、といわれて巴もやむなく、最後のひと働きを木曽殿にお目にかけてと、ひとあばれしたことになっているが、なにぶん美しい女武者が男武者を組みしいて女上位となるので、かっこうがよくない。
男武者のほうでも、危急存亡《ききゆうそんぼう》の瀬戸《せと》ぎわであることを忘れて味な気持になり、ちょっかいを出して、いたずらすんでねえの、と首を引っこぬかれたであろうと、まことにかゆい所に手がとどいている。
あばれるだけあばれた巴が、今は思い残すことなしと、自害するつもりになった時、潮時を見はからったようにただ一騎、駒をすすめて来たのが、音にきこえた和田《わだ》一門の棟梁《とうりよう》和田義盛《わだよしもり》であった。けさからの奮闘につかれ、戦う気も失せていた巴は、ついに義盛に組み伏せられ、鎌倉へ引きたてられた上で、義盛に懇望《こんもう》されてその妻となり、生まれた子が英雄|朝比奈三郎義秀《あさいなさぶろうよしひで》である。ところが、義秀は義仲の種だという説もあるので、
もらうころ巴|太鼓《たいこ》のような腹
太鼓には、おおむね巴の紋を描くので、ふざけたわけだ。だが前代|未聞《みもん》の女武者巴も、女であることに変わりはない。
ともしびが消えりゃ巴も女なり
こう組み敷きなさんしたと巴いい
最初は戦場で、今夜は閨房《けいぼう》で、いずれにしても和田義盛は寝業《ねわざ》の達者であったとみえる。