歌でさえ小町は穴《あな》のない女
むかし、小町針という針があった。『海録《かいろく》』という文政《ぶんせい》ごろの随筆に、小町針というのは、あるべきところに穴がないからの名で、この針はもっぱら刺青《いれずみ》用に使うので、今ではおおっぴらには売っていない、と説明している。しかし小町針は今でもある。穴のかわりにガラス玉などをつけたマチ針が、すなわちコマチ針の略称である。
また泥棒仲間の隠語《いんご》で、土蔵のことを娘といい、土蔵破りを娘師というが、この娘は小町娘の略である。錠《じよう》でしっかり入口を閉ざし、はいる穴のない蔵《くら》という意味だ。
小野小町は穴なしであった、などという失礼で下品なことを考えるようになったのは、もちろん口さがない連中が文学をいじるようになった江戸時代にはいってからのことだろう。たぶん謡曲の『通い小町』は、深草《ふかくさ》の少将の執心《しゆうしん》がことわりきれず、百《もも》夜通ってくだすったらオーケーよ、といったところ、あと一晩という九十九夜目に、雪の中で立ち往生《おうじよう》してしまった、ということになっているので、いくら美人でも、それほどまでに薄情なまねをしなけりゃならんというのは、いうにいわれぬ事情があったからに違いない。つまり穴なしだったんだ、とかんぐったわけだ。
あいわっちゃ小町さなどとついと立ち
小野小町じゃあるまいし、そうつれなくしなさんな、とくどかれた女が、おあいにくさま、わたしゃ小町さ、とツイと立ったというこの句は、そういう考え方から生まれたものだ。
ところで主題句は、紀貫之《きのつらゆき》が『古今集』の序で六歌仙を評した中で、他はそれぞれ欠点をあげているのに、小町についてだけは、「哀れなるようにて強からず、いわばよき女の悩める所あるに似たり。強からぬは女の歌なればなるべし」とひいきしている。きずのないことを俗に「穴なし」というので、アソコはもとより、歌でさえ、といったわけだ。その小町がまた、調子のいい恋歌をたくさん作っているので、
気の知れぬものは小町が恋歌なり
できもしないのに、と首をかしげるのも当然だ。
もちろん、穴なし説のもととなった『通い小町』も、見のがすはずはない。
そのわけをいわず百夜《ももよ》通えなり
馬鹿らしさあかずの門へ九十九夜
川柳をよむ庶民はおおむね男性だから、どうしてもふられた男の方へ同情的だ。
百夜目《ももよめ》になにをかくさん穴のわけ
百夜目はす股《また》をさせるつもりでい
少将が九十九日目で行き(雪)倒れになってしまったから、うやむやにすんでしまったわけだが、無事に通いつめたら、なんとかしなきゃならなかったろう。
——なにをかくしましょう、実は……。
と、ありていに白状するか、それもあんまりだというので、す股でごまかすか、いずれにしろ二者|択一《たくいつ》であったに違いない、と察しのいいところを見せたわけである。
濡《ぬ》れごとは雨よりほかにない女
しっぽりと小町も雨に一度ぬれ
小町の雨《あま》ごい伝説も有名だ。古来、雨ごいの修法《しゆほう》の場として知られた京都の神泉苑《しんせんえん》で、「千早ふる神も見まさば立ちさわぎ、あまのとがわの樋口《ひぐち》あけたまえ」とよんだら、たちまち大雨が降ったという話だ。小町にしては、一世一代の濡れ場だったにちがいない。