このごろは後家狂いだと嵯峨でいい
だがしかし、さしあたっての恋敵である仏が、味方の陣営にはせ参じて尼になったのだから、口説の種はなくなったはずだが、そこはやっぱり女で、一度かかわりのあった男の、その後の行状を気にしないではおられない。
あたかもそのころ清盛は、源|義朝《よしとも》の後家の常盤《ときわ》御前を引きいれていた。義朝は平治の乱にやぶれて東国へのがれる途中、尾張《おわり》の長田庄司《おさだしようじ》の家にわらじをぬいだ晩、風呂にはいっているところを、だまし討ちにされた。なにぶん、裸のところを殺されたのだから、庶民はだまっていない。
きんたまをつかめつかめと長田|下知《げち》
常盤《ときわ》めをこれでと長田にぎってみ
この時、義朝の愛妾《あいしよう》常盤は後家になったわけだが、すでに二人の仲には八歳の今若《いまわか》、六歳の乙若《おとわか》、二歳の牛若《うしわか》(義経)の三子があった。
常盤は三人の子どもをつれて、大和《やまと》の伯父《おじ》の家にかくれていたが、母親が平家方にとらえられたのを知って、母の命をすくうべく、清盛の前に姿をあらわした。三子の母といっても、当時まだ二十三歳、常盤めをこれで、と長田がやき餅をやいたほどの美人であったから、好色の清盛が見のがすはずはない。
そのまま邸に引きとめ、三人のおさな子の命と引きかえに、常盤をものにしてしまった。
残念かいいか常盤は泣いてさせ
子の愛に引きさかれて、というより、大事な源氏の血筋をたやさぬため、泣き泣き清盛の意にしたがったに相違ないのだが、しかし、なにしろ相手はベテランの清盛のことだ。
義朝とおれとはどうだなどと濡れ
源氏に負けてなるものか、という意気込みのベテランにあしらわれては、残念の涙いつしか変じて随喜《ずいき》の涙になったにちがいない。
貞女両夫にまみえたで源氏の代
小松殿|開《ぼぼ》が敵《かたき》と世をなげき
しかし、いずれにせよ、敵の清盛に身をまかせたおかげで、牛若は成長して義経《よしつね》となり、平家を西海にほろぼすことができたのである。だから、清盛の長男で、もっとも分別くさかった小松内府重盛《こまつのないふしげもり》が、金が敵というけれど、それどころじゃない、アレが敵と世をなげいたのもむりはない。