故郷《ふるさと》を弘法大師《こうぼうだいし》けちをつけ
坊さんとセックスといえば、江戸時代の庶民が男色の開祖とみとめている弘法大師を見のがすわけにはいかない。
道鏡《どうきよう》のように女帝に取りいり、政治に口だしをし、法皇と僣称《せんしよう》するような坊主があらわれたのも、奈良時代の仏教がほこりっぽい都市仏教だったからだ。そこでさっさと都を京都《きようと》へ移された桓武《かんむ》天皇は、仏教の方も新規まきなおしで伝教《でんぎよう》大師と弘法大師の二人を中国へ留学させ、新しい天台宗《てんだいしゆう》と真言宗《しんごんしゆう》を輸入し、山の中で落ちついて修行《しゆぎよう》したがよかろうと、天台は比叡山《ひえいざん》へ、真言は高野山《こうやさん》へまつりあげてしまわれた。
その結果、なにしろ何千という坊主どもが、女っ気なしで暮らすことになったものだから、がぜん、この二つのお山が男色の本場になってしまったのは、自然のなりゆきというものだ。
それなのに、高野山の弘法の方だけが男色の開祖ということになっちまったのは、いちはやく女人禁制《によにんきんせい》の看板をかけ、ふもとの女人堂から上へはぜったいに登らせなかったので、サテハということに世論がかたまってしまったのである。
故郷忘じがたく、せっかくの仙術をフイにしておっこった久米《くめ》の仙人《せんにん》みたいな先輩がいるというのに、いくらお宗旨のためとはいえ、自分が生まれた故郷にケチをつけるとは、せまい料簡というものだ。そこへいくと肉食妻帯をゆるした一向宗《いつこうしゆう》はあっぱれだ。
親鸞《しんらん》は世をひろく見てあなかしこ
弘法は裏親鸞は表門
親鸞|上人《しようにん》のお文章は、みんな結びが「あなかしこ、あなかしこ」となっている。そこで弘法のようにきゅうくつなことをいわず、おおいに故郷を、表門をたたえているとふざけたわけだ。