——それにしても、戦後女性の自覚はめざましいものがある。いつぞや、ある調査機関で求職者に出したアンケートによると、求職の目的という項では、生活に自信をつけたい、社会を知りたい、技術を身につけたい、というのが圧倒的で、結婚準備という答えはわずか五パーセントだったというんだから、めざましいもんじゃないか。
と、社会学者が場ちがいの発言をしたので、ケンケンゴウゴウと相なった。
——それはつまり、男がたよりにならなくなった、ということなのさ。
と一人がまぜっ返すと、また一人がいった。
——いやいや、女が自信を持ちはじめたことはたしかだネ。とくにセックスの面において、戦前までまるっきり無知だったんだが、先生方が商売がてらセッセと啓蒙なすった結果、生娘《きむすめ》でも昔の女房族より物知りになっちまったんだ。それがなにより証拠には、セックス最高論、セックス真昼間《まつぴるま》論、あげくの果ては、性生活は女性がリードすべし、などという勇ましい議論まであらわれたではないか。それが、あらかたうら若い女性の発言なんだから、恐れいる。
口先ばかりは達者でも、体当たりの性攻法を受けとめる体力はとても、という悲哀が言外にあふれている。その点、わたしも人後におちぬ一人だから、事理明快な助け船を出した。
——それはきみ、セックス最高論なるものは、あくまでも女性の一人よがりなんだ。たとえばだネ。マッチの棒で耳をほじくれば、いい気持で目を細くするだろう。だがマッチの棒は、先っちょがしめって二度と燃えなくなるだけで、いい気持どころじゃない。まるっきりサービスさせられっぱなしなんだ。そういう男性の悲哀も察せぬ最高論なんてものは、ひとりよがりにきまってるサ。真昼間論も一見健康そうだが、有閑《ゆうかん》女性のタワゴトだネ。女性のために昼間はもとより、夜分でも働きづめのわれわれが、うっかりそんな甘言に乗ってみたまえ、昼間は昼間でおつきあいさせられた上に、夜は夜でということになるにきまってるサ。そうなれば仕事はとどこおり、収入はガタ落ち、おまけに勤務先から文句が出て、生活はご破算になることうけ合いだ。それになにより、若いもんだって、そうは体力が続くまい。
要するに社会に対する責任がない上に、その方にかけては段ちがいにタフな女性の一方的な宣言にすぎないのサ。……そういう女というものが、性生活はわたしどもがリードする、ということになったら、どういう結果になると思いますかナ。
と、言葉を切って見まわしたら、みんなシュンとしている。そこでわたしは追いうちをかけた。
——諸君は専門がちがうから、ご存じないかもしれないが、江戸中期の科学者に、平賀源内《ひらがげんない》という先生がある。この先生が政府も国民もおろかで自分をみとめてくれないのにカンシャク玉を破裂させて、『風流志道軒伝《ふうりゆうしどうけんでん》』という風刺小説を書いてるんです。
その中で、主人公の浅之進《あさのしん》という若者が、百人あまりの手下の唐人《とうじん》といっしょに、難破して女護《によご》ガ島《しま》に漂着するというくだりがあります。その島では男性が漂着すると、女たちはそれぞれ自分の草履《ぞうり》を浜辺にぬいでおき、上陸して、それをはいた男と結婚するという習慣になっていたので、そのとおりにして喜んでいると、女王さまが一行をお城に連れこんでしまったので、国民といっても女ばかりなんだが、これが女王横暴、男性独占禁止のプラカードを押したてて、国会ヘデモ行進をおっぱじめたわけだ。
国をあげて流血の惨事が勃発《ぼつぱつ》しそうな気配《けはい》が濃厚《のうこう》になった時、浅之進の進言で、上下貴賤の差別なく、男性を解放することになった。といって男の数が限られているんで、無条件というわけにはいかんから、いささか資本主義的だが、金しだいということになった。身分が物をいう封建制度よりは進歩的にちがいない。つまり女郎屋じゃない、男郎屋をひらき、日本は江戸吉原のしきたりどおり、男郎の位をさだめ、遣手婆《やりてばばあ》は取手爺《とりてじじい》と改めて店開きをしたところが大繁昌、おすなおすなの騒ぎとなったが、半年もたたないうちに一人残らずあの世へ鞍替《くらが》え、浅之進だけはもともと浅草|観音《かんのん》の申し子だったので、観音さまが木の松茸《まつたけ》とあらわれて身がわりに立ってくださったので、ひとりつつがなく生きのこった、という話です。
そりゃあ夢話にはちがいないが、男が昼夜つとめるということになると、まずこのとおりでしょう。ところが江戸時代以来、女郎がその勤めのためだけで死んだという話は聞かない。死ぬ死ぬというのは口先だけ、一般的にいって、男と女の性生活における順応性と持久力には、これだけの相違があるんです。……いかがです。たえず臨戦態勢にあって、消耗することを知らぬ女性が性生活をリードするということになったら、浅之進一行の運命は期して待つべきものがありますヨ。つまり数々の勇ましい発言も、相手方の能力や条件を無視した、ひとりよがりの迷論であることが、これでおわかりか。というわたしの長広舌《ちようこうぜつ》に、一座はのんびりとくつろいで、めでたい春の宴《うたげ》となった。
さて、どうもこれまで平家方に片よったうらみがあるので、この章では源氏の大将にスポットライトを当ててみたところ、その相手の女というのが、政子《まさこ》といい、巴《ともえ》といい、心配したとおりの男まさりであるのに驚いた。