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黒パン俘虜記3-1

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
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 食事をともにしながら談笑する習慣は、人類が共同の生活をするようになった原始の時代には、もう始まっていたに違いない。人間にとって一番大事な風習でもあったことは、どんな儀式の後にも必ず食事をともにする時間が設けられていることで納得できる。
 ところが食事と同じぐらいに大切な排泄の作業を一緒にしながら談笑する習慣は、これまでの人間の生活の中にはなかったようだ。この国へ来てぼくはそれを経験した。
 ぼくらは皆この国の宗主国である北の大国の歴史的な名物であるシベリヤ流刑囚の例に従い、地面に大きく掘った穴に屋根をかぶせただけの穴蔵兵舎に二千人ずつに分けて収容された。
 全員が土の中に潜って暮す生活だから、更にその中に掘る屋内便所は作りようがない。
 その上ぼくら二万人の一団を、砂漠の秘境に運んできた人々は、これまで皆羊毛製の移動住宅を建てて住む生活をしており、便所という施設を知らなかった。一番近い隣りの集落が東京から名古屋ぐらい離れた環境にいて、土地は乾燥しきっている。適当に落した物はまず犬が喰い、残りは、三日もたたないうちに風が塵《ちり》にして、無限の大地の中に吹きとばしてしまう。
 国中の人口が八十万人、老人、赤ん坊まで交ぜても、首都には六万人を欠ける国民の中に二千人の集団を十組も迎えたのであるから、住居、食糧、水と、しばらくは国中の全機能を動員しての騒ぎが続いた。やっと、全員を落着かせて収容してみたものの、便所のことまでは、思いも及ばなかった。
 これだけ人間が多いと、今までのように、自然の空気の浄化作用に任せるわけにはいかないことが、すぐ判明した。といって木材の極端に少いこの国で、囲いのある便所を建てるような贅沢なことができるわけはない。結局、双方の幹部が知恵を出し合って作ったのが、長さほぼ十メートル、幅三メートル、深さは五メートルもあるプールのような大穴で、ここに横に何列かの板を渡す。板と板との間に二十センチぐらいの隙間があり、俘虜たちは任意の二枚の板を踏んで、真中あたりまで行って適当にしゃがみ、間に落すという形式のものだった。
 三つの大穴が並び、一杯になれば別の穴を掘り、使用済みのものには土をかけて埋め、痕跡を消す。土地は無限にあった。
 各人のための仕切りは勿論、全体の囲いもない。混《こ》み合う時間には、一つの穴に何十人もの人がやせた尻を並べる。黙っていてもしようがない。自然に談笑の場所になった。
 もっともいくらおかしいことがあっても、あまり大声で笑えない。夏場の、下の物が凍っていないときにもし渡し板の間から落ちたら災難どころではすまない。誰も助けてはくれないから生命の危険さえあった。
 逃亡予備罪で刑を受け、これまでの収容所生活から、病院の死体解剖室助手として、突然只一人だけで起居する生活になったぼくが、その当初に感じたのは、この会食ならぬ会便の談笑がないことが、ひどく淋《さび》しいということだった。
 毎日の食事の時間には、他人の飯盒の方が多いのではないかという疑いがあるから、きびしい無言で却って談笑はない。排泄にはお互いに全く利害関係がない。
 前日の粥《かゆ》がとうもろこしのゆでたのだったりすると、弱った胃に馬糧用の固いものが送りこまれるので、殆ど消化しない。原形のまま落ちて行く。もし下に手がのばせるものなら、中から拾い出して、もう一度喰べたいと、お互いに残念そうに語り合ったものだ。
 しかし今、ぼくがいる死体置場は、病院の本館からも二百メートルも離れた孤立した小屋だったので、そのときどきに蒙古式にすませて、上に雪でもかけておけばよい。ただし目の前の病院には、はちきれそうに人がいる。彼らの設備がどうなっているのか、来たときから気になっていた。
 二回目の正月もすぎ、解剖の手順にも馴れてきたころ、ぼくは毎日顔を合せている、解剖係の竹田軍医にそのことをきいた。
「あれだけの病人がいたら、便所《かわや》の処理は大変でしょう。どうなっていますか」
 軍医は手を休めずに答えた。
「大変な問題だったんだよ。大体もとは六十人の労働英雄を休養させるための施設だったから、それだけの設備しかない。一階の廊下の左右の外れに、西洋式の便器が三つずつ置いてあった。ちゃんと仕切りと扉のある立派な便所だったがね。そこへいきなり二百人の病人が入ってきた。蒙古人のことを笑えない。日本兵の病人も殆どそれまで腰掛便器なんて見たこともない連中だ。二日もたたないうちに全部こわしてしまった」
「それは困りましたねー」
 話の間も実直な性格の軍医は、誰も監督がついているわけでもないのに、丁寧に腹腔を開き、内臓を切り出して行く。命ぜられたことを良い加減にやるということのできない人だった。
「それで相談の結果、便所を二種類に分けて作ることにした。病舎の左側、ここから見てあの石炭倉のかげになる所に、収容所と同じスタイルの野天の穴を掘った。だが一人で歩けない患者のためには、室内に、元の腰掛式のタイル便器を外して、桶を置いてある。なるべく外の方を使用するようにと言ってあるのだが、寒いからどうしても、中のを使う。一日何回も二人の当番が、天秤棒に吊して桶の中のものを外にあけに行くのだが、この当番の希望者が多くて困っている」
「なぜです」
「どんな仕事でもいい。病院に残れれば、寒さと飢えから解放される。つまり、生命をとりとめることになる。民団では高等官の裁判官までやった人や、作業隊の将校団の人々まで、コネを使って、やらせてくれと事務室に申しこんでくる。定員が一杯だから、丁重にお断わりして外の仕事へ出てもらう。病院には、もっと品の良い仕事があるが、それは早くにこの病院へ入ってきた協和会系の民間人に独占されているから、もう割りこめない。乙幹君は、協和会っていう組織を知っているかね」
「いえ。ただ日本の大政翼賛会に似た、政府直属の政治団体だと聞いたことがありますが」
「それも一面の真実だが、大体は若いとき左翼運動にかぶれて、日本にいられなくなった人々が作ったものだ。満洲へやってくると過去をかくして百八十度転換、国家主義運動の尖兵《せんぺい》になった。どこまで本気か知らないが、ぼくは時代によって自分の思想を変える人は好きではない」
 彼らが独占している内勤事務職の安逸な生活は、軍医にも腹に据えかねるものがあったのに違いない。そのことより懐かしい共同の会便の場所についてもう少し聞きたかった。
「どうでしょうか。竹田軍医殿。ぼくがその便所を使ってはまずいでしょうか。勿論外の方ですが」
「そうだね。今晩病院へ帰ったら、春日君という、蒙古共和国側との接触を専らやっている責任者がいるから聞いてあげよう」
 今まで聞いたことのない名だった。
「ぼくがここへ来たときその人はいましたか」
「いや正月の初めここへ戻ってきた。ぼくと同じで患者の早期引取りに抗議して、蒙古共和国側と衝突し、三カ月ばかり懲罰の意味で、各作業場をたらい回しに働かされてきた」
「よく生きて帰ってこられましたね」
「半死半生で担ぎこまれたよ。かなり痛めつけられていた。それでも蒙古語の力が抜群だったから戻さないわけにはいかなかったらしい。前にここにいたときは日本側院長の副官の仕事をしていた。春日君の居ない間、代りに副官を勤めた人は軍医だったが、あまりまじめすぎて、その任務に耐えられなくなって、そうだな君のくる十日ぐらい前に、メスで割腹自殺してしまった。それで、蒙古共和国側も春日君の処罰労働が終ると、大至急作業場から送り返してきた。今では元気で一切の交渉を任されている」
 竹田軍医は切り取った肝臓を、ぼくに手渡しながら
「そんなに皆と一緒の便所に坐りたいかね」
「せめて一日一度、他の人々と接触しないと、ここにたった一人で置去りにされてしまったようで不安で堪らないのです」
「そんなものかねー。人間ってのは」
 改めて感心したようにいった。この軍医は真面目すぎるほどの人で、翌日の作業にかかる直前、忘れずに返事を伝えてくれた。
「春日通訳に相談したらね。君の身分が身分だから、朝の混み合うときに患者や何かと話し合うのはまずいが、午後の人の少いときに使うのならかまわないだろうということだったよ。ああ、それから春日君が一度、君と話したいそうだよ」
「春日通訳さんがここへ来られるのですか」
「いくら春日君でも、自分一人でここへは来られない。蒙古語が上手なだけに、行動範囲が限定されている。できれば明日の昼休みに、君に便所に来てくれないかといっていた」
 伝言だけ終ると、軍医は、机の上に横たえられている死体の切開にかかった。一日六体だと昼までに二体の縫合をすませ、三体目の腹腔は開いておかなくてはならない。喉《のど》を顎骨にそって下弦の月型に切って行き、その中心にT型に一筋の線を入れて、臍《へそ》のあたりまで開いておく。
 そのころ丁度十二時になる。軍医はそのままの形で、仕事を中断して、病院まで食事に戻って行く。
 ぼくは朝もらったパンを、水だけをおかずにして喰べる。終えてから歩哨には目立たないよう、かなり慎重な足取りで病院に近よると、石炭倉を回って大きな穴の所へ行った。白い下着に毛布をかぶった患者が五人ぐらいしゃがんでいた。一年以上身についた習慣で、二つの細板にまたがって、ズボンを下してしゃがむと、なぜかほっとした気分になった。
 患者は白いシャツと袴下《こした》姿だが、外出には毛布をかける。退院者で作業場行き待機の臨時職員はもとの軍服に白衣をつける。軍医と事務職員たちの身分が保証されているエリートは木綿で作った縞模様の藍色の背広を着ていた。食堂のボーイの着るような薄っぺらの服だが、ここでは権威の象徴だった。その高級職員の服装の男が一人、近よってきて穴のふちで
「やあ! オツカン君かね」
 と快活な声で話しかけた。俘虜になってから、このように大きい声は聞いたことは少い。作業場では皆本能的に、エネルギーの消耗を怖れる。浪費は死に直結する。相手の耳に届くぐらいの声でしか話さない。これだけでひどく元気のいい人に思えた。
 あわててズボンをひき上げ、彼の方に近よった。
「竹田軍医の仕事を手伝っている人だね」
「ええ」
 ぼくは横に並んだ。
「自分はここで今、現地の側との折衝をやっている通訳の春日だがね。つい先日まで懲罰労働で五、六カ所の作業場をたらい回しにされてきた。川岸の作業場に行ったとき、君の評判をきいた」
「どんなことでしょうか」
「なかなかの特技を持ってるそうじゃないか」
 ボスの部屋へ伺候して演芸を披露するだけでは、一般の人に特技が知られることはない。実は川岸の収容所でも秋口にかかるころは少し落着いてきて、日曜には作業が休みになった。三回ばかりだが、演芸大会をしたことがあった。ボスのやくざの三人組が、褒美のパンを提供してくれて、自分らが独占していた娯楽を、一般の俘虜たちにも開放したのである。芸のあるものはパンを目ざして腕を競った。
 本職の浪曲師。声色の上手な旅回りの役者。民謡の名人などがいてパンを争ったが、もっとも受けたのは、大村能章歌謡学校の生徒で、東海林太郎の書生をしていたというセミプロの歌手の、美男の阿部衛生兵長の流行歌と、ぼくの映画講談だった。ぼくは、ジョン・ウェインの駅馬車に、阪妻《ばんつま》の無法松の一生、藤田進の姿三四郎と、最も得意とするものを、それぞれたっぷりと、情感をこめて語った。
 こういう物は聞き手が多いほど熱がこもる。二千人の大観衆を相手に声を張り上げているときは、正直いって、陶酔感さえあった。そのときの話でも多分春日通訳は聞いてきているのだろう。
「自分が事務所で見た、蒙古語の書類によると、君の刑期は二月の二十五日に切れる。丸四カ月だ。それからは、またどこかの作業場に出す。元の川っぷちの収容所以外なら、どこでもいいことになっているが、そうなれば当然、ここの病院退院者と同じで吉村隊へ行くことになる」
 体が冷えるような恐怖が湧いてきた。通訳は少し気の毒そうにいった。
「今のところ病院の各種の仕事も定員が一杯だ。死体の解剖室助手も後任が決っている。ここの仕事はみんな狭き門だよ」
 ぼくらが立話をしている前を、白い下着に毛布を巻きつけた患者がまた何人かで助け合うように歩いてきて、しゃがんでは用便をすませて行く。通訳は沈痛な声でいった。
「去年の春、奉天で検事正をやっていた人が退院になった。満洲国薦任官一等という高等官だ。もう年だからぜひこの病院においてくれ、糞桶担ぎでも何でもいいと、床に頭をすりつけるようにして頼んできた」
 竹田軍医のいったのはこの人のことだったのだろう。
「自分もその願いを叶《かな》えてあげたかったが、内勤の定員がもう残っていなかった。満洲国ではお世話になった人だけに辛かったが、自分にはその権限がないといって、心で泣きながら作業場へ送り返した。その人は三月《みつき》で戻ってきたよ。今度は『暁に祈る』の処刑の犠牲者としてね。全身の凍傷を見て胸が潰れる思いだった」
 聞いているうちにぼくも辛くなってきた。
「だがね君は残したい。無い定員をむりにこしらえるのだから、君にも相当な努力をしてもらわなくてはならないが」
 正直なものであたりが急に明るく光り輝く思いがしてきた。
「ぜひ残してください。どんな努力でもします」
 ぼくは生き残りたかった。もう一度日本へ戻りたい。それにはここにいることが一番確実な手段だ。そのため誰かが代りに死んだとしても、この境遇では、ぼくを咎《とが》められる人はいないはずだ。
「患者は少しでもよくなればすぐ酷寒と飢えと苛酷な労働が待っている収容所へ連れて行かれる。ここにいる間だけでも、楽しい思いをさせてやりたい。患者の中に文展に二度入選している画家がいる。それで自分は考えたんだがね、その人に絵を書かせ、君がそれを持って各病室を廻る。映画講談を紙芝居にしてくれないか。毎週ごとに番組を替えて、映画でも見た気分にさせてくれ。これならぼくが蒙古共和国側を、公認ではなくても、黙認させるぐらいの自信がある」
「すばらしいことです。一所懸命やります」
「刑期が終ったらすぐ第一回の演目にとりかかる。考えておいてくれ」
 思いがけない朗報に、ぼくの頬は硬張って今にも泣き出しそうになった。
「蒙古共和国側に口を出させないためには、君自身が熱演して、初めの二、三日のうちにここには絶対必要な人材だと、まず病院側に強く印象づけるのだ。そうしたら、ずっといられるかもしれない」
 この企画は春日通訳にも、需要のないところに新製品を押しこむ難しさがあったらしい。少しでも不評だったらただちに、作業場へ送り出されるだろう。その代りもし成功したら想像もできないほどの幸せな生活が待っている。一人で死体小屋に戻りながら、激しい闘志が湧いてきた。
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