シベリヤ本線のレールには、また列車の往来が盛んになった。東行きは相変らずX字型の板を打ちつけた貨車が殆どで、いつも小さい窓からは、大勢の顔が外を覗いていた。その一台に三、四歳の少女が交って入っていた。ちぢれた亜麻色《あまいろ》の毛に、緑の目で、ぼくらを不思議そうに見ている。どうしてこんな少女が政治犯としてシベリヤに送られなければならないのかと、暗い気分になり、それとともに、ぼくらは皆いっときも早くこの国を出なくては大変なことになるぞ、とせかされる思いで、必死にまた歌詞の暗記にとりくみ出した。しかし三番まで詞があると、どうしても二、三カ所、語句が混乱して間違うところが出てくる。そのたびにシベリヤへ送り返される悪い予感に心臓が瞬間冷たくなる。夜になって通りすぎて行く列車からは、大概、例の地獄の底から響いてくるような怨念のこもった民謡が聞こえてきた。
待機も七日目に入った日の昼ごろ、ぼくらの車の扉口まで来た若い男が声をかけた。
「自分は二百三十一号車の見習士官の福田というものだ」
しゃっきりとした口調で話す姿勢もよかった。これから少尉に任官というところで捕われの身となった。そのままで上、下とも、身分が固定したから、未来の国軍幹部に今一歩という精進の姿勢は、まる二年経っても変らない。
「今日は自分は決行の同志を募りに来た」
ぼくらは緊張した。何の決行か分らないがここまできて、軍隊言葉でいう軽挙妄動に走り、全員が帰還中止で送り返しになったら大変だ。できるなら、そういう兇事《まがごと》への誘いは、聞かなかったことにしたい、毛布に首をつっこんで寝てしまうもの、わざと横を向いて他の者と話し合うもの、できるだけ、この若いのを無視しようという姿勢になった。
見習士官はそんな応対ぶりに馴れているのか、全く気にもしないで話しつづけた。
「この汽車の旅の終る港の町では、心の底まで真赤にかぶれた筋金入りの共産党員が待っていて、思想調査を入念に行っている。それで手間どって帰還がおくれおくれになっている事情は、もう諸氏にも分っているだろう。我々はなるたけ早くそこを通過して少しでも早く日本に帰り、天皇陛下にお詫びして、大日本帝国再建のため努力しなければならない。そのため一時は熱狂的な共産主義者のふりもしなければならないし、スターリンへの忠誠も誓わなくてはならない。何事も早く帰るためだ」
少しは彼のいうことに耳を傾ける者も出てきた。誰かがぼそっと小声で答えた。
「船に乗るためなら、どんな主義にもなりますよ」
「ところが、どうもそれだけでは駄目らしい。敵もさる者だ。見かけだけではごま化されない。二年間の抑留生活の中で、思想改造がもうすんでいることの証明を要求するらしい。それで我々は今晩その実績を作っておきたい。一車輛、一人か二人出してくれれば、全員がその行動に参加したこととして、向うへ行って調査員に報告する。これは自分が責任を持つ」
他の兵から質問があった。
「行動ってどんなことをするのですか」
「この十七号編成の中ほどの百五十四号車に、吉村隊長が幹部と一緒に乗っている。三十人ぐらいの幹部が常に身辺を警戒している」
ぼくはあの相撲取りのように、よく肥《ふと》って体力の強い連中を思い出した。棒を振り回し、やせこけた男たちを作業場へ追い出すときの連中の怒号は、頭にちらと浮んだだけでも身ぶるいする。
「そいつらを、今、ここで充分に懲《こ》らしめておけば、帝国主義打倒、資本主義否定の行動に、我々全員が立ち上って参加したことになる」
「懲らしめるって、どんなことをするんですか」
もう一人別な男が心配そうな声でいった。
「ぶっ殺しでもすると、やはり問題が起るんじゃないでしょうか。蒙古共和国側は計算が面倒になるので、五十人の人間が四十九人に減るのをひどく嫌ってますよ」
二人の兵の質問に見習士官はしっかりした語調で答えた。
「それはよく分っとる。殺しはしない。板で殴りつけて、二度と大きな口をきかせない程度にやるつもりだ。我々の必要とするのは、形式上の実績だけだからな」
「それで自分たちにどうしろというのですか」
「さっきいったように、今晩の蹶起《けつき》に一人か二人だけ加わってくれ。それだけで港の査問委員に対しての、この……」
と一旦、車輛の前方に書いてある番号を見て
「……二百九十三号車の諸君の、思想度は充分評価され、査問は他より楽に通過するだろう」
別に吉村に同情するわけではないが、こんな形式上の実績を上げるために殴られるのではちょっと気の毒な気がしないでもなかった。この若い見習士官が何を根拠にしてこんなことを起そうとするのか、多少いぶかる心がないではなかったが、もう七日も動けないでいると、港で待っている査問官への不気味な予感が拡大するばかりで、何でもいいから役にたつことがあったらと、藁《わら》にでもすがりたい気分になってくる。
能弁の兵隊がいった。
「見習士官さん、この件は分った。自分が出ますよ。その代り査問官にはよろしく頼みますよ」
そこで見習士官との間に待ち合せ場所や、襲撃の際の武器などについての打合せをしだしたが、突然みなが思いもかけないことが起った。
歌の文句を教えてくれた老補充兵が、ぼくの真下の寝床から体をのり出して質問した。
「見習士官殿、吉村隊長の件は分りましたが、もう一人、兵隊を苦しめたボスに、小政というのがいます。自分が考えるのには、小政の方がずっとひどい。小政はどうするのですか」
ぼくは不思議なものを見た。見習士官が少し動揺し、顔色が変ったのだ。全く小政のことを知らないわけではなさそうだった。たとえば皇室の批判をするように、絶対触れてはいけないタブーに無理に話題を持って行かされた困惑のようなものが生じていた。実はぼくも内心同じことを考えていたので、急にこの老補充兵の勇気ある発言に興味を持った。
吉村なら誰でも攻撃できる存在であった。単に組織に乗って頂上で威張っていただけで、自分の腕力でのし上ったわけではない。一人では殺人もできまい。ただし小政は違う。その怒りに触れたら、何をされるか分らない。全身が闘いのエネルギーにみちた殺し屋だ。迂闊《うかつ》に小政の名を口に出すのもはばかられる絶対の存在だった。
しばらく言葉に詰まっていた見習士官は、やっと自分の論点をたて直して反論をしてきた。
「小政などは元は一兵卒にすぎん。体制上の問題とは関係ない。暴力を振っていばりくさっただけで、思想上の次元はひどく低い。たとえやっつけたところで、労多くして功が少い。査問官の関心を全くひかない。我々にもそんな無駄なことをしているひまはないのだ」
無理に虚勢をはっているような大声であった。空疎ないい逃れにしか聞こえない。
「では頼んだぞ」
自分でも居難くなったのか、能弁の兵隊との打合せをすますと、すぐ前の車輛に去って行った。ぼくのすぐ下の棚にいた補充兵は
「こりゃーだめだ。まるで屁のような話だ」
そうはっきりした言葉でいうと、また毛布をかぶってしまった。
全く同感だった。最下級の兵の卑屈さ従順さが身についてしまって生きているが、このバリトン男はなかなかの人物だなとひどく感心した。ぼくは一度ゆっくりとこの補充のおっさんと話してみたいと思った。小政を知っているのなら、ぼくの映画講談をきいたことがあるだろう。それが話のきっかけになるかもしれない。そういえば、国境での臨時の新入りのせいもあって、この人がまだ誰とも無駄話をしておらず、名前も身分も明かしていないのを、このとき気がついた。お互い他人のことを気にしない習慣が身についているが、それでもこれは少し異常であった。
その日も一日中列車集団は動く気配がなかった。
夕方暗くなると各車から、一人か二人が、行動に参加するために抜けだしてきて、車輛の前の方にある空地へ身体《からだ》をこごめながら歩いて行った。この行動に冷やかなのは、ぼくと補充兵だけで後の者はしきりに心配して話題にしていた。もっとも連日ごろごろしているだけで何も仕事がない。昼間眠りすぎて眠れないせいもあった。
夜も大分おそくなってから、ぼくらの車の代表は戻ってきた。新品同様のふっくらとした上等の毛布を二枚も抱えていた。
回りからすぐ声がかかった。
「おいどうだった」
「いやー愉快だったよ」
「抵抗はなかったかね」
「こちらは百人近くいた。抵抗どころか、棚の奥にもぐりこんでみんな震えていた。隊の幹部以外は許してやるといったら、二十五人出てきた。もと吉村隊にいてよく顔を知ってるのが、一人一人焚火の光りで顔を調べてから外に出してやった。それでも三人ばかりごま化して出ようとする奴がいたので、丁寧にまた貨車の中に戻してやった。それから一斉の踏みこみだ。中に二十八人残っていたが、一人も武器を持ってない。悲鳴をあげて逃げ惑うのを思う存分ぶん殴ってやった」
「それで吉村をやっつけたのかね」
「たしかに中に吉村がいるのは分っていた。だがおれたちの狙いは帝国主義打破・資本主義体制の破壊にある。だから個人にこだわらず体制を守った者全員をひとしく懲らしめようということで誰も敢《あえ》て吉村個人を意識しなかった。しかもリンチは扉をしめきってやったから、どこに吉村がいたか最後まで分らなかった。皆平均にやっつけたから、彼も今ごろは体中殴られて唸っているのは間違いない」
ぼくの寝床の下で
「全く屁みたいなことをして、何の役にたつんだ」
とまたあの補充兵がいった。ぼくはうつむくと、下の彼にだけ聞こえるような声でそれに答えてやった。
「小政じゃそうはいかないな。こんなことしたら一旦全員を追い散らした後で、今ごろは奴の部下が、各車を訪ね歩いて行動に参加した者を、一人一人見つけては、虱つぶしに殴り殺しているころだ。怒ると凄いからな」
大声で自慢話をしている兵に、誰かが少し羨ましそうにきいた。
「ところでその毛布はどうしたのだ」
「最初|膺懲《ようちよう》行動に入る前に、足場をよくするため中の荷物を全部ほうり出した。さすがに吉村だ。チョコレート、ビスケット、白パン、黒パンなどが沢山積みこんであった。狭い貨車だ。一ぺんに中に入れないので、扉の外を囲んで守っていた参加者が、そのほうり出された荷物を見ると、我勝ちに争って奪い、逃げ帰ってしまった。全員をコテンパンにのした我々が、扉をあけて出てきたときは、菓子やパンと一緒に、残りの人間も消えていた。あまり腹がたったので、棚板に何枚も重ねて敷いてあった毛布をひっぺがして持ってきてやったんだ」
何人かがくすっと笑った。
まる二年俘虜生活をしていて、いい加減こすっからくなっているはずなのに、随分間の抜けたことをしたものだ。
「これだけのいい毛布なら、どこかの駅で停ったとき、ロシヤ人に売りつけてやれば、パンの五、六本になるのじゃないかな」
「もっとなるかもしれない。何しろ何もない国だから」
とたんに誰もが襲撃の話に興味を失って、急にこの国の物資不足の話をてんでにやり始めた。これは汽車に乗って以来、俘虜たちの間で最も語られることの多い話題で、話しだしたらタネはつきないほど、お互いにみんな豊富な実例に直面していた。
物資の交換はどの収容所でも水汲みのシナ人が間に入り、秘かに、しかし盛んに、行われていた。
ハンコの印肉を口紅として、蒙古軍の将校夫人に売りつけた話、粉歯磨をおしろいとごま化して、思いがけなく沢山のパンにありつけた話。ビタミンの注射のアンプルのラベルを全部606に書き変えて、梅毒のおできに悩むガニ股の作業監督に大量に売りつけた者、呆れるほど物のないこの国で、誰もが何かしらパンに換えては生き永らえてきたのだ。
車内の誰もが、過去の交換話に夢中になっていたとき、ぼくは下へおりて補充兵のそばへ行くと枕もとで、今日まで全く目だたなかったこの男に初めて話しかけた。
「さっき聞いてびっくりしたんだが、あんたも小政の所にいたのかね」
「ええ、自分は乙幹さんをよく知ってますよ。小政の所で、無法松と、駅馬車を聞かせてもらいましたよ。病院へ入ったのは、かなりおそかったので、巴里祭と、残菊物語の二本だけ聞かせてもらいました。自分は映画が好きなもので、とても懐かしかったです。だから国境ではすぐ分りましたが、実はしばらく信じられなかったので声をかけなかったのです」
「なぜだね」
「自分は出発の日まで病院にいて、病気の人々と一緒に最後尾の車で来たのですが、病院では、乙幹さんはもう死んだという噂が伝わっていました」
「なぜだろう」
「暁に祈らされそうになったので、その前に第二兵舎の窓の鉄枠に縄を巻きつけて首を吊ったというのです。吉村はかんかんに怒って、壁に二、三日ぶら下げておいて、みせしめにしていたというのです」
ぼくは文学の好きな、あのおだやかな男を思い出した。
「ああそれはぼくではない。しかし間違えられるのも無理はないところもあった。感じが似ている人だった。その事件があったのはそれほど前のことではない。出発のほんの少し前だ。噂ってのは随分早く伝わるものだね」
「何でも春日通訳は、早くから帰還のことを知っていて、特命を受けて、各収容所の状態を調べていたらしいのです」
「春日通訳さんか。懐かしい名前をきくなあ」
「乙幹さんが自殺したときいて、俳句好きな竹田軍医殿が、すぐ医務室の内勤兵に入院の有志を加えて、追悼の句会を開きましたよ。参加者には黒パン八分の一の特配があり、自分も参加しました」
「句会か。こんなぼくのためにね。竹田さんは優しい人だからな」
「俳句ならやれる人が多いのでかなり集まりましたよ」
「光栄だな」
ぼくは完全にテレてしまった。
「明日でも何とか最後尾に行って、春日通訳さんや竹田軍医にお礼をいっておこう。ところであんたはどんな句を作ってくれたのかね」
「自分のは�残菊のお徳をしのぶ 外蒙古�というのです。平凡すぎて入選しませんでした」
溝口映画の最高傑作のラスト・シーンだった。語りにも熱がこもり評判がよかった。ぼくは手をさしのべて、しっかり握手した。
「ありがとう。こんな嬉しいことはないよ。みんなにまだ覚えていてもらって」
パンを少しでもよけいに喰べたい、苛烈な環境を生き抜きたいという思いでやった仕事だ。こんな風にいわれると、恥かしかったが、同時にとても晴れがましい思いもした。
「ああそうだ」
急に気がついてその男にきいた。
「国境の上を通るとき、デマが伝わってきた。最後の持物検査で裸にされたとき、女が二人見つかったというじゃないか」
「はい」
「その一人は病院の衛生兵だって」
「はい」
「誰なんだね。あんたは知っていたのかね」
「ええ、自分ら病院部隊には、競馬場でトラックにのせられた段階で、早くも彼女の存在がばれてしまっていました。やっぱり体を押しつけるようにしてのせられているから、回りの人には分るし、便所なども、必ず物かげでしゃがむので、おかしかったのです。すぐに車中にさまざまの噂が囁かれました」
「そうだったのか。それで誰なんだね。病院に勤務していた兵隊さんなら、全員知っているつもりだが」
「いや、乙幹さんは見たことがないはずです。病院へ着くと同時に、アレクセイナ院長と日本側の院長本木軍医少佐との計らいで、ゼンナー看護婦長の家の当番兵として出向して、ずっと病院へ戻ってこなかったのです」
「そうか、小山衛生兵だな。凄い美男子だという評判が残っていた」
それは伝説でしか知られていなかった兵隊であった。
ゼンナー看護婦長は二メートルぐらいある大女で、四十近い年の、女盛りむきだしの体つきをしていた。蒙古人と宗主国の白人との混血女だ。夫は対独戦で戦死し、十歳ぐらいの男の子と、病院とは一キロぐらい離れた官舎で暮していた。
俘虜たちでは、一つ担げる者さえ殆どいない、七十キロもある黒パンの粉の入った麻袋を、両手に一つずつ把んで、ひょいと持ち上げて、平気な顔で運んだ。
若い男がほしくて物色していたら、美青年が一人目に入った。それを自分の当番兵にして病院から連れて帰り、昼は子供の勉強相手、夜は自分のベッドの相手にして、責めたてているという話が、ひそひそと語られていた。やっかみ半分もあって
「小山衛生兵は、今はいい思いをしているが、帰還のときが来ても、ゼンナーが放さず、もう二度と日本へは帰れないだろう」
とみなからいわれていた。ただその当の小山を見た者は一人もいなかったのに、噂では林長二郎時代の長谷川一夫にそっくりの美男子ということになっていた。
「本当にいい男に見えたかね」
「ええ、しかし分ってしまった彼は、急に女らしくなりました。可愛い女でした。大きな黒い瞳が艶っぽく光って、そばにいるだけで堪《たま》らないほどでした。国境で服を脱ぐときは、みな気の毒なので、見るような見ないようなふりをしていましたが、検問の特務将校が、襦袢の下がふくらんでいるのを発見して怪しみ、小ボタンを二つあけて確かめたとき、ちらと見えた丸い乳房に自分は目がくらむ思いをしました」
「そうか、小山衛生兵は女だったのか。どうしてこの国に入ってきたんだろう。看護婦に手をつけた軍医が、無理に連れてきてしまったのかな」
「いえそうじゃないのです。トラックの中の話や二人の態度で分ったのですが、協和会からきた人で、妙に腰の低い、いつもニコニコしていた井野という薬剤師がいたでしょう」
「ああいた。あんまり言葉遣いが丁寧で、態度が穏やかなので、却ってぼくらには馴染《なじ》めない人だったなあ」
「あの人の奥さんなんだそうです。内地から彼女がやってきて、現地で結婚式をあげて三月もしないうちに終戦になってしまったのだそうです。それで二人とも離れるのが辛いので、夫人は率先して丸刈りになり、しっかり旦那さんについてきたのです。入国してからそれが分り蒙古共和国側で大問題になり、すぐ一般兵から隔離してしまったのです。病院へおいておくと、好奇心の対象になるし、おかしな問題が起っては困りますからね」
そうなのか。今さらながら、この秘密の保持には感心すると同時にひどく惜しい気がしてきた。もっと早く分っていれば、病院での内勤中に何とかそばへ行く機会をつかみ、体の匂いだけでも嗅がせてもらったのにと思った。
「それで夫婦はときどき会っていたのかな」
「これもトラックの中での立ったままのひそひそ話なので正確ではありませんが、日曜の夜だけ井野さんの方から訪ねて行くと、ゼンナーが気をきかして、二人きりで一つの部屋ですごさせてくれたということです」
「それじゃー抱きあったことは確かだ」
「そりゃー二人だけのことですから、何をしていたか分りません。お互いに若いし、新婚三カ月でした。キスだけではすまんでしょう。でもゴム・サックなどない国ですから、最後のことはやはり慎んだのではないでしょうか。もし妊娠したらどうにもならなくなり、最悪の場合は子供を人質に、永久にこの国に残れといわれる怖れがありますからね」
「そうだな」
話しながらも、その二人のことを考えると、妙に悩ましくなってしまった。走行中の列車でのトイレはどうするのか。長い旅だ。着換えなども当然あるだろう。既に女と分った後、狭い貨車の中の膝をつき合すような生活で、みなはどんな思いでいるだろうか。
一たん情景を想像しだすと、ぼくはさまざまのことが頭の中を走り回って止まらなくなってしまう。明日は早速、最後尾の車輛を訪ね、世話になった春日通訳や、竹田軍医に、ぼくが元気に生きていることを示し、お礼の挨拶をしておこう。そしてちらと、あの伝説の林長二郎ばりの美少年、実は井野夫人をぜひ見てやろう。
何もすることのない待避線での退屈な生活に、恰好な気晴らしができた。
どしんと汽缶車がぶつかった感じの、衝撃があって、貨車全体が少し後ろへ下った。
まだそれが出発の準備とは思わず、明日はともかく日本の女を見てやろうという、期待に胸がはずんだ。
だがいつも、ぼくの期待は実ったためしがない。このときもそうだった。
明け方ひどく寒かった。それに車が揺れて規則正しい音がしている。
ふっと目をさまして窓から外を見ると、汽車はいつのまにか、シベリヤ本線の上を走っていた。雪は音もなく降り、回りは白一色の世界であった。
立ち上って窓から顔を出した。顔に当る空気はとても冷たくて凍傷になる危険さえある。それでも、ひっこめられなかった。明らかに東に向いているのが分った。汽車の正面から明るくなり、もうすぐ太陽が出そうで、先触れの尖兵が、連隊旗か朝日新聞のマークのように、雲を分けてはっきり何本も空に向って飛び出していた。