高地から下りにかかると、急に列車のスピードは落ちてきた。
蒙古共和国の国境を越えて汽車に乗りこんだときは、十七編成の列車集団は、十分おきに出発した。それからのシベリヤでの長い旅では、いつも前後がお互いに見えるぐらいの間隔でつながって走っていた。それが二日前、やや急な登りの地形へ入ったときから、お互いに離れ出し、ときには前から離れるため停車したりして、いつの間にか前の列車も、後に続く列車も見えなくなった。
「つまりこれは、港の終点へ一万六千人もの人間が一ぺんに到着すると、船に乗せる係が混乱するから、二時間おきか六時間おきか、彼らが一隊ずつ処理できるよう時間を調節しているのだ」
待たされていらいらしているとき、情報に敏《さと》い能弁の兵隊がそういった。それで急にみなの胸に希望がわいてきた。
丘の下りも終って、平地へ入ったとき、汽車のスピードは全く落ちて、虫が這うようになった。とうとうそれも終り、力尽きたように、ガタンと大揺れして止まってしまった。前に線路がなく、TT[#2つのTを横に並べた形]字型の器具がおいてあった。明らかにここが鉄路の終点だった。
「おい、鼻をふくらませて降りろよ。潮《しお》の香りがするぞ」
そう言って、まっ先に外へ飛び出し、思いきり冷たい空気を吸いこんだのも、その能弁な男だった。ぼくらも彼に続いて、争って飛び出した。そこはたしかに終点だった。前に砂山があって海は見えなかったが、かすかに波の音さえ聞こえていた。
引込線が何十本もあり、既に右側にはこれまで前に走っていた列車が停っていたが、扉はあけられ、中は空っぽで、人間の姿は全く見えなかった。
まだ朝は早い。ぼくらの列車は今日の到着の一番で、前の列車は昨日までの到着分らしかった。国境を出発してから一月と十日たっている。長い旅であった。飛び下りた人々は、雪もまばらな砂地の上で、両手を振り回したり、軽く駆け足したりしていた。潮の匂いと、かすかに聞こえる波の音の他にもう一つ、アコーディオンを中心とする音楽と、それに交る歌声が、これは風の加減で聞こえたり消えたりしていた。荷台の半分ぐらいに人間が乗っているトラックが、遠くからやって来て止まった。短機関銃《マンドリン》をかまえたソ連兵に守られている。荷台から飛び下りると、一人ずつ二十輛ある各車の扉口までやって来た。この国の労働者用の人民労働服を着ており、赤い蛇腹が巻いてあるレーニン帽をかぶっていた。近づいてくる顔を見ると日本人だった。
全員がこういう出迎えを何度もやっている経験者らしい。現われるときのタイミングから、ぼくらへの第一声まで手なれたものであった。
各列車ごとに分れて適当な位置につくと、一体この男たち何でやって来たんだろうと、いぶかし気に見ているぼくらにいきなり
「こらっ、きさまたちは何たるざまか」
と大声でどなり出した。迎えの言葉や、せめて、これからの注意でもあるかと思っていたぼくらはあわてて並んだり、一カ所に集まって、そのいうことをよく聞こうという態度をとった。全員よくひびく鍛えられた声を持っていた。
「神聖なる我らの祖国シベリヤの大地に、きさまたちは、道々野糞をたれながらやってきた」
便所がないのだから当然だろう。最初の歓迎の挨拶としては、品が悪すぎる。しかし左右の貨車の前でも、彼らは全く同じ文句から始めているのが聞こえるから、これはどうもここでの第一声の決りであるらしい。
「これまで住まわせてもらい、喰べさせてもらった恩を感じている奴は一人もいないのか」
いきなり一人の兵隊のそばに近づき、襟のところにあった階級章をむしりとった。地面に叩きつけると、すぐ足で踏み潰した。
「早くとれ! 捨てろ! こんな物をくっつけているようでは、すぐシベリヤへ逆戻りだ。馬鹿もん。恥を知れ」
ぼくらはあわてた。軍隊にいたときほどきびしいものではなかったが、これで民団・補充・現役の区別がついて、相互の話し合いに便利であった。
惰性でつけていて、皮膚の一部のように、それがついていることを、全く意識もしていなかった。あわててむしりとって地面に捨てた。きっと前に着いた列車では、吉村も小政も従順に捨てただろう。
何となくおかしくなった。以前病院の内勤兵で、やや腕力に自信があった者が、入院したときは二つ星の一等兵、三カ月後には中で四分の一のパンと交換した軍曹の襟章をつけ、四階級特進で他の収容所へ出ていったが、それをとがめる者も笑う者もいなかった。自分の腕力があれば、どんな位でも勝手につけられたのだ。レーニン帽をかぶった連中がいきりたつほど、真剣な問題でなく、お猿の山の位づけぐらいのものだった。
この迎え方には、誰も見事に度肝を抜かれた。彼らの右腕には『民主聯盟』と赤地に白く染め抜かれ、その下に墨字で『指導員』と書き加えた腕章が巻かれていた。威圧のためか、列車の周囲を歩き回るロシヤ兵の首の前にかけられた短機関銃は、常に銃口をぼくらに向けて、いつでもすぐ発射できるようになっていた。
一分間に七十二発の弾丸がとび出す。ぼくらは、その弾丸の発射音を知っている。民主聯盟の者たちが、それからぼくたちに浴びせかけた叱責、罵詈雑言《ばりぞうごん》は、丁度この弾丸の音を聞いているような激しいものだった。よくこれだけの豊富な悪口の語彙《ごい》を用意したなと、ぼくは感心した。あまりに沢山の言葉が次から次に出てくるので、大半は耳の上を通りすぎてしまって、意味もよく分らないほどだった。
「何だこのざまは。今までここにはもう何万人もの抑留者がやってきたが、きさまたちほどだらしがない奴は見たことがない」
右から左から、同じ言葉の怒号が入ってくる。
「きさまらは、この聖なるロシヤの大地で、折角働く機会をもちながら今まで一体何を学んできたのだ。規律や精神は一つもないのか。すぐ全員で車内の清掃にかかるんだ。もう日本は負けたんだ。軍は解散された。将校も下士官もない。もと将校の搾取的階級にあった者ほど、人民への謝罪のため、一心に働いてみせないと、船へは絶対乗せないぞ」
掃除するといっても箒《ほうき》一つあるわけではない。貨車の中にもぐりこみ、棚の中を這うようにして、掌でゴミをかきあつめる。レーニン帽の若者は中へ入ってどなりちらし、這って掌で隅をさらっている者の尻を蹴飛ばした。誰一人それに対して反抗できない。
「もしこの中に埃《ほこり》一つ残っていたら、全員が連帯責任だ。すぐに蒙古共和国へ帰ってもらうぞ。手ですくえなかったら舐《な》めてきれいにしろ。この車輛はスターリン大元帥閣下が、畏《かしこ》くも我々抑留者のためにお貸しあたえられた大事な貨車だということを、片時も忘れるな」
スターリンの名さえ抜かせば、旧軍隊の言葉と発想がそのまま使われていた。
この民主聯盟の人々は、近くでよく見るとまだ若く、むしろ可愛いといっていいような顔をしていた。多分敗戦の直前に入営の現役初年兵だ。まだ軍や天皇に対して素直な感情を持っているうちに、新しい思想を叩きこまれたのだろう。信仰相手が変っただけで、同じような純粋な忠誠心が身についていた。特攻隊志願の若者と全く同じで迷うことなく、共産主義に徹しきっている。中には、スターリンの名をいうときは憧れに目を輝かし、一々両踵を合せて、直立不動の姿勢を取る者もいた。
約一時間ぼくらは絶え間のない怒号の下で働いて、やっと清掃が終った。あら探し専門のきびしい点検にも合格した。その後全員が荷物をまとめて、列車の前に整列した。もうそろそろ収容所へ入って行くと思って期待していると、今度はまた別のトラックに二十人の人間が来て、今までの民主聯盟の人間と合流した。レーニン帽と、人民労働服までは同じであったが、腰のあたりが、妙に丸く太い。背も低い。帽子の下には長い髪が押しこんである。
「女だ」
「何だろう。苦しい労働をしてきたおれたちに慰めの言葉でもかけてくれるのだろうか」
小声でささやき合うぼくたちに向って、能弁の情報通が、やはり小声で注意した。
「思想調査員だ。こういうことは女の方が、融通がきかないから怖いぞ。気をつけろよ」
耳が早い男は、目もいいらしい。近くに来たその若い娘たちの腕章には、ちゃんと『思想調査査問員』と染め抜かれていた。首には画板をかけ、調査用紙がクリップで止められていた。みんなよく肥っていて、白い顔に頬が赤く、見た目には可愛らしい娘ばかりであった。どういう経過で、こんな若い女たちがシベリヤに残されていたのか分らない。ぼくらの貨車に査問にやってきた娘は、その二十人の中でも特にきれいな娘だった。
昭和の十年前後に人気のあった、ややエキゾチックな容貌の、霧立のぼるという女優にそっくりで、何人かが「あっ、霧立のぼる」と驚きの声をあげた。その査問員も自分が似ていることは、ちゃんと意識しているらしく、軽くほほえんで見せた。少し緊張していたぼくら五十人の男たちは、これでいくらか気が楽になった。
その一瞬、ぼくらのだれた気持に活を入れるように、女から号令がかかった。
「気をつけ。これから査問にかかる、休め」
五十人の注目を集めるときびしい声でいった。民主聯盟の男たちは、その女を守るようにそばについて、やはり鋭い目をぼくらに注いでいる。
「右はしから、所属部隊名と、名前と、年齢を一人ずつこれから調べる」
画板に止めた白紙の空欄をよく見るように向けた。
「ここに自分がきさまらの名を書き入れる。その後ろに欄が三つあるのが分るか。返事しろ」
一斉に返事した。
「ここへ二年間の労働によって、思想改造がすんでいるかどうかを書き入れる。次の欄はここの収容所での教育に対しての、きさまらの学習態度を書き入れる。両方とも七点以上か、片方が六点以上で合計が十五点以上でないと、船には乗れないぞ」
無理に乱暴な言葉を使っているようだった。声が女だから、少女歌劇みたいで変に色気があってくすぐったい。だが、船という言葉が出ると、とたんにぼくらは無力になった。風の音にも脅えるような情ない心理状態に落ちこむ。
この国のしきたりに従って、五人ずつの十列になっているぼくらの間を、レーニン帽の霧立のぼるは、一人ずつ名前と所属部隊をきいて歩いた。おかしなことに階級章を地面に捨てさせ踏みにじらせたくせに、彼女らは階級をしつこくきいた。階級の上の方が帰りにくいらしいと、もう分ってきている。幸いに証拠品はむしりとった後だ。ハッタリをきかして勝手に上げていた者は、却ってこれで助かった。疑われない程度に、一つか二つ落しての過少申告をした。准尉の階級章をつけた者がぬけぬけと一等兵と答えた。だがこれまで准尉らしくふるまっていた態度が、どこかに残っているらしい。
「嘘だと後で分ったら、もう一度ウランバートルに行ってもらうからな」
大きな黒い瞳に睨まれて、あわてて彼は伍長まで戻した。
ぼくのところへもやってきた。
名前の後で、北シナ派遣軍の所属部隊をのべ、正直に、乙幹の軍曹だと申告した。
女はそれをロシヤ字で記入して行く。少年聯盟員と仕事を交替した理由が、これで分った。彼女らは労働の代りに、ロシヤ語の特別の教習を受けてきているのだ。
兵隊にはそれぞれ特有のタイプがあり、乙幹には、将校コースの甲幹に入れなかった、落ちこぼれの印象がどうしてもつきまとって隠しきれない。
「それじゃ学生だね。大学はどこか」
これには困った。入隊前にぼくのいた大学は、国家主義的傾向が強く、学問より空手と喧嘩で有名であった。うっかりその名を口に出しただけで、もう三年や四年は思想改造に逆戻りさせられそうであった。学長や級友に心の中で詫び、近くにあるキリスト教系の、卒業生に芸能人の多い大学の名を寸借した。
「まあーそう」
一瞬その美女が、本来の自分の言葉を出し、羨望の目で見たと思ったのは、うぬぼれか。生れて初めての学名詐称《テンプラ》に気がとがめたが、これも日本に帰るためと割り切ることにした。
一時間以上もかかって、五十人の記名が終ると嬉しいことをいってくれた。
「これから行われる審査に合格した者は、この名簿がそのまま乗船名簿になる。乗船のときに、もう一度名前の確認があるから、きさまら、聞かれたときは蒙古人民共和国の二百九十三号と、まず書類の番号を言ってから、自分の名前を申し述べろ」
これなら覚え易い。ずっと乗ってきた汽車の番号と同じだからだ。
「さて、早く帰りたい者があったら、只今からの我々の調査に積極的に協力するんだ」
目付きがまたきびしくなった。
「抑留中、自分をいじめた人間、不当にパンや物資を横取りした人間、暴力をふるった人間、その他何でもいいから、民主的でないふるまいをした者があったら、その者の名をこの場で申しのべろ。抑留中の思想改造欄に、一人の摘発につき、三点、特別配給点を出す。二人申し出せば六点だぞ。これだけあればあと一点でもう合格だ。すぐに思い出せ」
ちょうどそのとき船の汽笛が砂山の向うに聞こえてきた。
まず一人が、まっさきに、吉村の名をあげた。これはアイデアであった。蒙古共和国中に、あまねく普及した悪名だ。誰でも何のこだわりもなく口に出しやすい。
「同じ吉村のことでもいいぞ。自分が何かやられた者は、かくさずにそれを話せ」
吉村の悪口ならいい易い。次から次へと、自分が受けた残虐なふるまいを語り出した。中には他人からまた聞きした私刑の模様を語った者もかなりあるようであったが、そこは三点欲しさだから、お互いにかまっていられない。ぼくはここでこそ、小政の名前を出すべきだと考えた。勇気があったらすぐそうしたに違いない。ところが心の一方にかすかな不安のようなものも湧いてきて、ブレーキがかかった。
その三点の特配がなくても何とか帰れるだろう。人を批難すると、これまできっとそれに倍する悪いことがあった。それならここまで来て人の悪口をいうこともあるまいと思い直した。
補充兵のおっさんはと、ちらと彼の方を見た。小政に関しては、ずっと尖鋭な意見を持っている彼の考えが知りたい。補充兵はぼくが振り向いたのを知ると、かすかに首を横に振った。やめろという合図であった。
そして、それはやはり年の功であった。
半分ぐらいの人は、この特配の三点を貰っただろう。他の車でも事情は同じらしかった。
女たちは手の腕時計を得意そうに見た。時間がきたらしい。
「これで予備審問を終える」
ぼくらには、彼女らの言葉より、一瞬人民労働服から手をのばしたとき見えた、時計バンドが喰いこんでいる白い肌のことの方が気にかかった。あまりにも生々しくて、思わず唾をのみこんだ。たとえ腕先だけにしろ、女性の白い肌を見たのは、二年と二カ月ぶりなのだ。
灼けつく視線を彼女らもすぐに悟ったのだろう。あわててひっこめた。
「これから第一収容所の方へ行く。只今申告に協力してくれた者は、後ほど人民法廷が開かれたときは、直接法廷での告発人となってもらうぞ」
ぼくはそれをきいてやはりいわなくてよかったとほっとしたが、申告した兵は突然のことにあわてた。
「当人を指名して自分らに教えればいい。審問処罰は我々でやる」
こうなってから今さら嘘だったなんていえない。そんな奴はすぐ、シベリヤでもう二、三年と脅かされるだろう。お調子にのる怖しさだ。
いきなり女がいった。
「歩調取れ。目標第一収容所正門。出発」
二年前までは大部分が国軍の精強な兵士であった。行進はまださまになる。
「赤旗の歌始めい。自分に続いて一節ずつ唱え!」
昔から軍の行進では、隊の半分を前後に分けて、一節ずつ、くり返して唱う形式をとっていた。特に歌の上手な者がいると、それに一節唱わせて、全員が続いてまた一節唱うという形式もあった。交互に唱わないと、息が切れて、行進ができない。
女がきれいな声で唱いだした。
※[#歌記号、unicode303d]民衆の旗 赤旗は
後に船に乗ってから聞かされたのだが、前線までやって来た慰問団の少女歌劇団の全員が抑留されて、ここで働かされていたのだった。前も後も、女たちの美声は砂浜によくひびいた。女の声の一節が終ると、すぐ我が貨車の者は、強く太いバリトンの声にリードされて、全員がためらいもせずに唱い出した。女やつきそっている聯盟員は、おやという顔でぼくらを見た。みんながもたついて唱えなかったら、さんざんいやみをいって、絞りあげてやろうというつもりが、どうもあてが外れたらしい。前の貨車あたりでは、全員が何の声も出せずに行進がストップさせられて、そばについている聯盟員がどなりつけ、立ったまま改めて練習に入ったグループもあった。
ぼくらは得意だった。唱いながら他の貨車の者を抜いて、門の方へ近づいて行く。特に補充兵のバリトンは、遠く海の方まで流れて行くようで、さすがにプロの喉は違うと思わせた。一節ずつ切れる。その間に彼女は補充兵のところにやってきて、その並び順で名前をたしかめると
「きさまに特配五点やるぞ。これまでずっとみんなに教えてきたのかね」
ときいた。
唱いながらうなずく。次の節のリードを終えるとまたいった。
「さっきは、きさまは誰の名も申告しなかったから、いくじなしの裏切者として追い返してやるつもりだったが、これだけ唱えたら黙って合格だ」
ぼくたちは、貨車ごとの行進の何台分かは抜いた。
三度ばかりくり返して唱い終ると、今度は列を前後に分けて交互に唱わせた。
バリトンの補充兵がいない列の方が、まだメロディが揃わず、極端に下手さが目だったが、それでも次のときに回復するので何とか面目を保った。突然
「うおーう」
と唱うのを休んでいる方の列から、吠《ほ》えるような声が出た。丘を越えると、白い氷まじりの泡が噛んでいる海が見えてきたのだった。それに船さえ見えた。二艘もだ。海があれば、この大陸はここで終りだ。その先は日本だ。とうとうやって来た。歌声は一層元気になった。