いつの間にか子供が中学一年生と小学四年生(1974当時)になってしまった。アルバム帳の写真を見ると一年前と今年でもう随分違って見える。長男は一・六四メートルの女房の身長と同寸になり、おそらく後二、三ヵ月で彼女を追越し、ぼくの一・六八メートルに迫り、これも時間の問題でいずれ息子に見下され、われわれ親共は下から見上げながら子供の機嫌を取らなければならなくなるのは必至だ。
子供ができるまではかなり精神的に自由だったような気がするが、子供が生れ、そして次第に成長してくるにしたがって、いつの間にか子供に対する所有欲が強調され、子供を自分の考えの枠内に納めようとする、非常に保守的な考え方に変ってこようとしている。世間のことに関しては開いた視点を持っている積りでも、こと自分の子供に関しては驚くほど封建的な父権を行使してしまう。
このことはよく考えてみれば明らかに親のエゴイズムで、子供に対する愛情というより、親であるぼく自身から子供が解放され、自由になることを最も恐れている証拠らしい。だからぼく自身が子供への執着を抱いている限り、自由になれず、結果的に、子供も絶対自由になることは不可能だろう。
一方、子供を自由に振舞わしたところで、このことが、かえって親であるぼく自身を苦しめるようなことになるなら、これも、真に子供を自由にさせてやったわけではないはずだ。子供を親のものであると考える以上、子供と親との関係は、後々まで非常に醜悪な状態から脱出することもできないだろう。このような状態になった子供にしてみれば、何も頼んで生んでもらったわけではないので、えらい迷惑なことかも知れない。
時たま子供と対立した場合、子供は、「生れてこなければよかった!」と言うことがあるが、こんな言葉を耳にした時、ぼくは背すじがゾーッとして、神の罰を受けるのではないかと恐れることがある。子供の言葉には、どこか神の意識に通ずる真理が隠されているような気がする。
自分が子供の親になって初めてわかったことは、子供は全て親を鏡にして育っているということだ。ぼくが子供に対して拒絶反応を示すことがある時は、それは結局自分自身を拒絶していることなのだ。
大人と若者がディスコミニュケーションの現代、どちらが間違っているかという議論に出合う時、親であるぼくと子供の関係に置きかえて考えてみると最も理解しやすい。子供が親の鏡であるように、若者の鏡は大人である、ということがぼくは実感としてわかる。こうなると、いくら大人に考え方を変えろと言ってもそれは不可能に近い。だから大人の考えを変えさせるためには、若者自らが自己変革をするより方法はないようだ。大人のそれを待っていると、本当に地球はあと二十年後に滅びてしまうだろう。今や親であるぼく自身も含めて、子供に教育されなければならない時にさしかかっている。
だからわれわれの世代の親が生んだ子供くらいは、本当に、真の魂から自由にさせてやりたい。