ヒルティだったかエマーソンだったかが、旅に出るということは自分自身から遠く離れることだといっていますが、ぼくは一概にそう言えないような気がします。毎日の生活が忙しいせいもあって自分のことをなかなか内省しない傾向にあるため、旅はそのチャンスです。日常生活の中で解決できなかった難題がいとも簡単に解決の糸口を発見したり、またストレスが東京を離れると共にまるで夢のように解消したりすることがあります。それはあたかも肉体から霊魂が離脱していくように、精神がよりクリアーになって光り輝くのに非常によく似ています。つまり、東京や日常生活はわれわれの肉体と同じように、魂を解放させるためにはどうしても足|枷《かせ》になっているものかも知れません。
すると旅は日常という肉体感覚からの脱出であり、その点からいってもより自分自身に深く関わるチャンスでもあるため、やはり旅はより自分自身に近づくことになるのではないでしょうか。
しかし、旅はぼくにとっては面倒なことです。というのも、ぼくは大変なものぐさであると同時に危険なものに対する恐怖感が強いせいか、旅先ではなかなか大胆になれないのです。旅に出るとぼくは自分が非常に矛盾に満ちた人間であることがよくわかり、自分自身が情なくなることしばしばです。ぼくが恥しがり屋なのか、それとも失敗や恥をかきたくないといういい格好《かつこう》しいのプライドの高い人間なのか、その辺がどれが本当なのか自分でもよくわからないのですが、ともかく、自分ひとりじゃ全く旅先でも何もできない人間です。いろんな物を見たり、尋ねたりはしたいのですが、ひとりでは億劫《おつくう》になってひどい時など一日中ホテルの一室に閉じこもってテレビを見ているというようなこともあります。このようにしてテレビを見ていても決して楽しくはなく、むしろつらい方が強いのです。しかし、こうした間もぼくはぼく自身と猛烈に葛藤しているので、より内的な時間の中を旅しているともいえるのです。
ぼくは、旅することは天国や地獄を見ることでもある、と以前書いたことがありますが、まさにこのような状況は地獄そのものです。このような時、天国も地獄も自分の中に存在しているという実感が起ります。だからぼくの旅は肉体の旅ではなく、心の旅といった方がふさわしいかも知れません。心の旅といえば大変聞えがいいが、ただ五感が鈍いのか、旅から帰った後、あまり旅先の情景の印象が強くないのです。風景を観ていてもただボーッと見つめているだけでは何ひとつ明確な物の形や色を記憶していないのです。絵を描く仕事をしている者としては観察力は乏しい方でしょう。だからぼくは絵を描く時、物か写真を見なければ何ひとつ上手に描くことができません。
というのもぼくは物の形や色を目で写実するより、それに触れた時の感動に重点を置いているため、どうしても外的な物の印象が希薄になってしまうのです。そうした内的な感動をどんどん積重ねていくうちに、自分の考えや創造が個性化してくるのではないかと思います。
例えば、山の中に入って匂ってくる草木や土の香りなどが、過去の体験を想起させてくれたり、現代の都会生活を反省させてくれたり、将来への夢を抱かせてくれたり、また自然や人間への愛の観念を呼|醒《さま》してくれたり、急に創作を開始したくなったりする、こうした情感がぼくの旅の本質ではないだろうかと思うのです。
ぼくは日本中を二年がかりで旅行したことがあります。この旅行の目的は「芸術生活」という雑誌に〈日本原形旅行〉というタイトルで日本の観光地の風景を描くためでした。そしてこの旅行でわかったことは、日本中どこの観光地もコマーシャリズムで俗化され、まるで歩行者天国さながらの人の波で、このようなところではぼくの感情はひどいバッドトリップで、東京にいるのと同じような終末意識に襲われるだけでした。だからこのような場所では自然との交歓など何ひとつ期待されず、ただ定められたコースをぞろぞろと数珠《じゆず》につながれたように足元だけ見て歩く旅が大部分で、また大部分の若い人たちがこのようなパックされた旅に満足しているように見受けられました。どこのお土産屋も食べ物屋も満員で、これはこれなりの旅の哲学があるのかも知れませんが、少々淋しい限りです。
旅の目的はあくまでも旅のための旅でなければならないのではないでしょうか。それが観光地などの名所旧跡などを見ることに目的を持てば、その場所に行ったという自己満足だけでそれ以上の収穫は何ひとつないのではないでしょうか。
ぼくは以前ヨーロッパに多人数でパック旅行したことがあります。乗物やホテルや食事や言葉の心配何ひとつない、しかも安いというまるで天国のような旅行の企画にとびついて参加しました。旅行中一人になれるのはトイレくらいのもので、他の大部分は同行の日本人多数と一緒で、まるで外国にいるという印象が非常に薄く、映画館の座席からスクリーンに映る外国の風景を見ているのとちっとも変らないというなんともけったいな旅行の経験があります。
それに対して一人旅は常に孤独とある種の危険が伴いますが、一日中同じ場所で立売のピザとコカコーラで日が暮るまでパリのサクレクール寺院の石段やニューヨークのセントラルパークの芝生の上で寝ころがっていた旅の充実感などは、一日が一ヵ月も、二ヵ月もの感じがして、ぼくの頭の中は宇宙の果てまでも行ったのではあるまいかと思われるほどの想像に満たされていました。
たしかにパックされたような旅なら、冒頭の哲学者がいったように自分からますます遠ざかることになるかも知れません。だからこのような旅の仕方なら、まだ音楽を聴いたり本を読んだりしている方がよほど旅の本質に近いかも知れません。
面倒であまり好きでもない旅をぼくが好んで沢山するのは、日常を一時ストップさせ、空想の世界に生きるためです。音楽や絵を鑑賞したり本を読むことも空想の世界で遊ぶことですが、見知らぬ土地で異邦人としての強烈な孤独な体験は、例えば水の流れを見ても、道端の石ころ一つ見ても、そこに自分の感情移入ができるほど感覚が鋭敏になっています。この鋭敏な感覚から生れる空想力は非常に強烈なものとしてぼくの潜在意識に焼きつけられ、いずれこうした旅の後遺症が創作に大きなゆるぎない影響を与えるのではないかと考えると、旅は創作のための栄養でもあるようです。
ぼくにとって過去の内外の旅は、その都度作品の傾向を変えてしまうほど大きな影響を与えてくれました。そうした中でも一九六七年のサイケデリック・ムーブメントの最高潮のニューヨークでの四ヵ月の生活はぼくにとって革命的な旅でありました。また現在のところ徐々に後遺症を現しつつあるインド旅行は恐らくぼくの後半期の人生を決定する大きな要因になることは確かなようです。ぼくが生きている限り、毎年一回ずつインドに旅するつもりです。今年(1976)も来月にインドの旅を控えています。
インドは一口にいって想像の世界を超越した感動的なクライマックスの連続です。インドはぼくに無限の質問を投げかけてきます。「一体おまえは何者であるか?」という質問です。インドでの旅は四六時中内省の連続です。だから物凄く疲れます。しかし自分自身を閉じないでオープン・マインドになればぼくはまた無限の自由を得られます。インドに行けばマリファナもLSDも必要としません。インドがぼくにとってまさにドラッグによるトリップの世界なのです。
とにかくぼくは旅の最終コースはインドではないかと思います。ぼくはまだまだ世界の多くの国や土地を知りません。だからあまりえらそうなことはいえませんが、この国には言語を越えたとらえがたい神秘的な大きな力が支配しており、ぼくのような虚弱な精神の持主など一口に飲込んでしまうような怪物に似た、しかし一方、母のような大きな愛でぼくを包容してくれる安心と平和があります。
インドはぼくにとって想像力そのものの世界で、ぼくは想像力の大海の中を漂っているだけでいいのです。だから旅には何の下調べも予備知識も必要ないのです。旅を研究する人は旅そのものの本質を知らないはずです。旅は頭でするものではありません。旅は魂でするものです。インドに行けばこのことがよくわかります。インドはぼくの旅の原点であると同時に、創作の原点でもあり、いずれぼく自身の全ての母なる原点になるかも知れません。
あまり人生の早い時期に決定的なものに出逢うのは不幸かも知れませんが、すでに人生の半ばを過ぎたぼくには、このインドとの出逢いは暗闇に光を見たようなものです。しかし、この光も小さな点に過ぎません。人生の後半の旅はインドの旅に導れながら、ガンガー(ガンジス川)の水の流れのように悠々《ゆうゆう》と生きていきたいと思っています。