一
安土《あづち》の秋は、去年の秋とは、まったく景観を一変していた。すでに天守も竣工《しゆんこう》し、八楼十門を繞《めぐ》る城下町も、新しき文化の大都府たる装《よそお》いをほぼ完成しかけていた。
父と共に、ここへ着いた松千代は、眼をまるくしていた。姫路の小城と比較しては、少年の目にすら、余りにもちがう安土城の豪壮《ごうそう》と絢爛《けんらん》に唯もう唾《つば》をのんでいる姿だった。
けれどこの少年も後《のち》には黒田長政となった資《し》である。父官兵衛に伴われて、安土の群臣の前に出ても、また信長に目見得《めみえ》しても、決して卑屈に羞恥《はにか》んでばかりいなかった。悪びれない姿で、何事にもはきはき答えた。
「父親の官兵衛よりは眉目《みめ》も美《よ》い。母御《ははご》に似たと見ゆる。気性も確《しつ》かり者らしい。良い和子《わこ》だ。なかなか良いところがある」
信長はしきりにいった。旁《かたがた》、どうかと思っていた質子を、かく早速伴って来た誠意に対しても、官兵衛の二心なきことを再認識して、大いに嘉《よみ》している風も窺《うかが》われる。
もちろんこの日、秀吉も立ち会っていた。質子授受《ちしじゆじゆ》の公式的な対面がすむと、後、西十二畳の梅の間で饗宴《きようえん》を営まれた。これは質子たる子と、子を預けて帰国する親とに、いつとも知れぬ再会の日までの別れの食事を意味するもので、骨肉の父子《おやこ》にとっては無量な思いに違いない。
従って、信長以下、席についた者は極く少数に限られている。その席で信長はいった。
「中国西下の儀も、近いうちに必ず果そう。その折には、筑前を以て、指揮させる。筑前と其方と諸事緊密《きんみつ》に協力して仕果すように」
これを聞くと官兵衛は、もう一子との離別《りべつ》などは、問題でない心地がした。積年の宿志《しゆくし》が届いて信長から直接、この誓約を得たからには、もはや実現を見たように、瞼《まぶた》の熱くなるものを抑《おさ》え得なかった。更に信長はまた、
「そちと筑前とは、いわゆる合性《あいしよう》だ。最初からの縁でもあるし刎頸《ふんけい》の仲。質子の松千代は、筑前の手許へ預けおくことにする。筑前の手に養い置かれれば、其方とても心安かろうが」
と、思い遣《や》りを示した。
「ありがとう存じまする」
官兵衛はそういうしか言葉を知らない。信長に対する畏敬《いけい》はかくて会う度《たび》に昂《たか》められる気がした。秀吉との親しみと尊敬には「己れを知る者のためには死す」という士心の髄《ずい》に沁みて来るものがあったが、信長に向っては、「やはり自分の先見《せんけん》は過らなかった。この人こそと仰いだ期待は裏切られていない」という、山へ登って山に失望なく、いよいよ山の美と高さを知るような思いがあった。
とはいえ勿論、山といえば嶮《けん》がある。谷がある。信長の気難《きむずか》しさや、測り知れない豹変《ひようへん》や、癇癖《かんぺき》や我儘や、ずいぶん人間的な短所は官兵衛も承知である。がその事は秀吉が常に仲に立って、よく双方を融和《ゆうわ》してくれるし、「ああしたご気性」というものを話してくれるので、官兵衛にとっては、寔《まこと》に気が楽だった。そしてそういう短所が少しも信長の欠点には見えなかった。