二
官兵衛の考えにしてみれば、小寺政職が彼にたいして、その書面のうちに、切に信長へ帰服することを勧めているものとすれば、村重が顔色を変えるのは、無理もないことで、むしろいかに主人小寺政職が、それを文の内容に強調しているかがわかるほどである——と、独りそう頷《うなず》いていたものだった。
ところがである。何ぞ計らん、政職の手紙の内容は、思い及ばない事だったのである。
すなわち政職は、自分の手で官兵衛を刺殺することは甚だまずくもあり、四囲の変乱《へんらん》も予想されるので、その書中に、
——当家の家老官兵衛を、そちらへ使者としてさし向けたが、この者は由来強硬なる織田方の執心者《しゆうしんしや》故、この者あるうちはとかく毛利家とも尊兄《そんけい》との盟約《めいやく》も遂行《すいこう》いたし難い。よろしくこの機会に、ご城内において刺刀《とどめ》を加え、二度と中国へ帰ることなきように計《はか》らっていただきたい——
という旨が認《したた》められていたのである。
すぐ前にその当人がいることなので、——正直な村重はぎくと色を更《か》えざるを得なかった。村重はまったく慌《あわ》てた。しかし、智略《ちりやく》自他ともにゆるす官兵衛はかえってそれを見誤っていた。
また、後になれば、これほどな危地へ臨むに、なぜ書中の文意を途中でなりと確かめていなかったかと人は悔《くや》んだが、かりそめにも主人の書簡を家臣として携《たずさ》えて来たものである。死《し》の魔符《まふ》がそれに封じ込まれてあると分っていても、封を破って偸《ぬす》み見るようなことは武門としてゆるされもせず、官兵衛としても自己に辱《は》じる。
いずれにせよ、ここは伊丹城中、しかも反旗をたてて、世を観るにも血眼であり、合戦は明日をも知れずとしている殺気満々な所でもある。官兵衛のいのちはすでに、官兵衛のものでない。政職の手紙とともに、それは荒木村重の手ににぎられているものだった。
「ううむ、小寺殿より此方へご意見か。かたじけないが、摂津守がこのたびの発意には、さてまた口には語りきれぬ仔細《しさい》もあること。……官兵衛、まず寛《くつろ》いで、悠《ゆる》りと話そう。どうだな、あちらへ移らぬか」
村重はこうぶつぶついってから、家臣の者へ、酒肴《しゆこう》の用意などいいつけ、先にぷいと起って、もういちど官兵衛にむかい、
「篤《とく》と、あとで語ろう。わしの意中をもだ。いま案内させるゆえ、あちらで待て」
といいのこして奥へかくれた。
小侍が来て風呂をすすめたが、官兵衛は断わった。そして白湯《さゆ》を求めた。
その白湯を持ってきたのは、茶道衆であった。慇懃《いんぎん》にすすめていう。
「別間のお支度がととのいました。ここよりはあちらの方が涼やかでもございますから、お移り遊ばしましては如何で」
「では、ご案内をたのもうか」
その者について官兵衛は歩を移した。秋の末ながら今日の残暑というものは堪らないほどしつこい。彼はふと平井山の陣の肌寒い秋を思い出した。秀吉のすがたを思いうかべた。
「どうぞ、こちらへ」
そこかと思っていると、茶道衆はまた、次の部屋へすすんだ。壁の多い、そして何らの調度も目立たない二十畳ほどの一室である。褥《しとね》に着くのを見ると、茶道衆はすぐ落着かない腰を浮かせて、
「ただ今、間もなく殿がお見え遊ばしますから」
と、逃げるがごとく去りかけた。