三
高槻《たかつき》城の高山右近と、茨木《いばらき》城の城代中川清秀とは、伊丹を中心とする荒木村重の両翼だった。
大軍を配して山崎から天王山へ本陣をすすめた後、信長は、このふたりを、誘降《ゆうこう》することに成功した。
高山右近は、熱心な耶蘇《やそ》教徒であるので、信長は彼の師父オルガンチノを用いて、巧妙に高槻を開城させ、また中川清秀は元々、村重の挙に本心から同意していなかったので、彼もたちまち信長の陣門に来て罪を謝したのである。
「よくぞ、よくぞ、そう覚《さと》った。さらりと、非を覚り、踏み直すこと、また武士らしさぞ。信長とて、何の宿意ものこすまい」
自己の歓びと、彼等の安心へ誓うために、信長は二人の降将にむくゆるに、莫大《ばくだい》な金銀と恩賞を以てした。
これまた、いかに信長が、この事件に頭を悩ませ、この一解決にすら歓びを抱いたか、心の奥のものをあらわしている。
——かくて。
いよいよ伊丹一城へ向って総攻撃を開始したのは、もう十二月に入っていた。しかし陥《お》ちない。さすがは頑強に自負している荒木勢だけのものはあった。その難攻にあたって、寄手の一将万見仙千代《まんみせんちよ》は討死をとげた。それほど猛攻して、幾たびか城壁にまで迫ったが、伊丹城はゆるぎもしなかった。
「これ以上、あせるは愚だ。捨てておいても陥ちるものを」
信長は、要路要路に附城を築かせ、いわゆる持久包囲の策をとらせ、年の暮には安土へ帰っていた。そして軍勢の一半を播州の援軍にわけて急下させ、一面、本願寺勢との連絡をいよいよ固く遮断《しやだん》した。そうした陣容はすべてこの機会に毛利の大軍が海陸から東上して来るものという予想のもとに万端、改編《かいへん》されたものだった。
信長の観《み》るところ、村重の強がりは、要するに、自力そのものではなく、やがて毛利輝元の水軍が大挙して摂津の岸へ上がって来るという——謀反前からの誓約を恃《たの》んでいるものにちがいない——と、這般《しやはん》の機微《きび》と大勢を早くも観破《かんぱ》したからである。