二
「……やっ。あんな所へ、藤の蔓《つる》がからんで来た」
ある日。彼は驚異の眼をみひらいた。東側に切ってある高窓の太い欅《けやき》の桟《さん》に、いとも優しい藤の嫩芽《わかめ》をつけた蔓《つる》の先を見つけたからであった。
「ははあ。かしこの外には、藤棚があるとみえるな」
初めて、それを知った。
「……そうか、それで読めた。藤棚は多く池の畔《ほとり》にある。夜毎夜毎、昼も折々、あの外で、異様な音がすると思うていたが、それは池の魚が水を搏《う》って跳《は》ねる音だったか。道理で湿気《しつけ》の多いはず……」
この日は、楽しかった。このわずかな緑の嫩蔓《わかづる》に慰められてである。次の日から朝起きても、すぐそこを仰いだ。ほんの朝の一刻《いつとき》であるがうすい日光が射すといよいよ美しい。そして蔓はかならず、一、二寸ずつ伸びている。
「しかし、あれを見ても、もう春は過ぎ夏も近いに。——以来、この城に、魚の跳ねる音しかせぬは、世上《せじよう》の成行《なりゆ》きは如何いたしたものか」
彼は微かな憂悶《ゆうもん》を覚えた。いや、慟哭《どうこく》するだけの精気すら、すでにないのかもしれない。
子を思うより妻を思うより、世を思うとき彼の涙はとまらなかった。平井山の陣中にある秀吉のその後を考え、信長の立場、近畿《きんき》のうごき、西国の情勢、東国の動静など、限りもなく想像にのぼってくる。
去年の十二月初めころ、この城を中心として、ただならない物音を幾日か聞いた。
そのときこそは、
(さてこそ合戦。織田どのの軍勢が寄せて来たな)
と、独り胸をおどらせ、同時に、ある場合の覚悟もかためていたが、その死を強《し》いて来る日もそれきり訪れて来なかった代り、以来、胸おどるような寄手の喊声《かんせい》もぱったり聞えない。
「織田方の形勢は悪いな。万一にも、毛利の水軍が、舳艫《じくろ》をそろえて、摂津の沿岸に上陸して来たら、ひとり荒木や高山や中川清秀にとどまらず、彼方此方に、離反の旗幟《きし》をかざす者が相継いで、安土は容易ならざる重囲の中に取《と》り塞《ふさ》がれよう……いやいや、すでにそうした最悪の情勢になり終っているのかも知れぬ」
そう思いつめると、今は官兵衛の生への執着《しゆうじやく》も日毎にうすくなった。心のどこを探しても、滅失《めつしつ》以外のものが見出し難いここちになった。
「むしろ死なんか!」
ある日、ふっと、そう思い出したら、矢もたてもなく、死にたくなった。
生を支えている骨と皮の肉体はそれほどに毎日の苦痛と闘っているものだったのである。灯《とも》りきれた灯皿の燈芯のように、精神力が枯渇《こかつ》を告げると、肉体はそのままでも——刃や他の何の力を加えないでもバタと朽木《くちき》のように斃《たお》れて終ってしまいそうであった。
「待て」
彼は彼にいった。
あぶら汗のたれるような必死をもって自分の肉体へ告げた。
「いつでも死ねる。もうすこし待て。……オオ、あの高窓の藤蔓もいつか茂り、しかも短い花の房すら持って咲こうとしている。……そうだ、白藤か淡紫かあの花の咲くまで見ていよう」
陽あたりのわるいせいか、房は垂れているが花の咲くのは遅かった。
「やあ、今朝は咲いた。……紫であったか」
幾日目かである。
朝陽《あさひ》のもるる中に、彼は鮮《あざ》やかな藤の花を見た。すぐ窓の下まで這《は》っていって、手をのばしてみたが、花のふさには届かない。
けれど、うすい朝陽をうけている紫の房からこぼれてくる匂《にお》いは、官兵衛の面を酔うばかりつよく襲ってくる。彼は仰向いたまま、白痴《はくち》のように口をあいて恍惚《こうこつ》としていた。
「……吉瑞《きちずい》だ」
いきなり彼は叫んだ。跳び上がる体力もないが、跳び上がった以上の衝動を満身に覚えた。めずらしく彼の額に血のいろが映えた。
「獄中に藤の花が咲くなどということは、あり得ないことだ。漢土の話にもこの日本でも聞いた例しがない。……死ぬなよ。待てば咲くぞ、という天の啓示《けいじ》。そうだ天の啓示だ」
彼は、掌《て》を合わせて、藤の花を拝んだ。その袖口から虱《しらみ》も這い出て、かすかな朝陽の影と、藤のにおいに、遊びまわっていた。