一
いろいろな意味で、彼の奇禍《きか》は世上に大きな波紋を投げた。たった今まで、天下の活舞台に飛躍していた立役者であっただけに、忽然《こつぜん》たるその姿の陥没《かんぼつ》には、世間の疑惑も無理ならぬものがあった。
しかし何といっても、もっとも大きな驚愕《きようがく》をうけたのは、官兵衛の郷党とその生家たる姫路城の人だった。わけても年老いた彼の父宗円《そうえん》であり、まだうら若い官兵衛の妻であった。
「虫の知らせであったか、あの日のお別れにかぎって、日ごろのたしなみものうお叱りを覚悟のまえで、お城下端《はず》れの並木までよそながらお見送りに出たが……そのときのお顔の色も……ご容子も……いま思えば、ただならずお見うけされたものを」
と、彼の妻は、繰返し繰返し嘆いて、その折、良人から投げ与えられた松千代の手紙を抱きしめ、ついにはあまりの涙に枕もあがらぬ病《やまい》の床に臥《ふ》してしまった。
「何をべそべそ喞《かこ》つか。もののふの妻が——」
舅《しゆうと》の宗円はそう叱っても決して宥《いたわ》りなどしなかった。宥れば宥るほどかえって彼女の女ごころをとめどなく掻き乱すからであろう。つねには嫁にやさしい舅御であるこの人が、ここ十日ほどは鬼の如く叱咤《しつた》しか与えなかった。
いや、嫁にだけではない。すでに老齢でもあり隠居同様な身分の彼ではあったが、ひとたび息子の官兵衛が伊丹《いたみ》の獄に監禁《かんきん》され、以後の生死も不明と伝わるや、この白髪の老鶴は、
「一族郎党の浮沈、正に今に迫る。老ゆればとて黒田宗円、やわか、この家門の滅亡を坐して視《み》るべき」
と、二十年前の壮気を身に呼び回《かえ》して、悲報《ひほう》に沈む家中の者を、巌のごとく睨《ね》めまわして、騒ぐな、うろたえるな、悲観するな、姫路にはなおわしがいるぞと、朝に夕に力づけていたのだった。
ともあれ、悲報ひとたび伝わるや、姫山を中心とする郷党の出入りは物々しく、人々みな眼を血ばしらせ、門に入れば鼎《かなえ》の沸《わ》くごときものが感じられ、早くもここには一死を共に誓う家の子郎党の二心なき者が踵《きびす》をついで駆け集まっていた。
そして、それらの人々に依って、官兵衛救出の決死組が結盟《けつめい》された。
熊野牛王《くまのごおう》の誓紙には、日本国中の大小神祇《じんぎ》、八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》、愛宕《あたご》山権現《やまごんげん》、ところの氏神にも、違背《いはい》あれば御罰を蒙《こうむ》らんと明記してある。——その誓紙の下に血判署名したその折の義臣の名を後に見るならば、
母里《もり》与三兵衛—喜多村六兵衛勝吉《かつよし》—衣笠久左衛門—長田三助—藤田甚兵衛—三原右助、同隼人—小川与三左衛門—栗山善助—後藤右衛門—宮田治兵衛—母里太兵衛
などの面々があり、「御本丸様」と宛《あ》てて認められた月日には、天正六年十一月五日という日付が見える。