二
主君救出決死組の盟とその連判《れんぱん》は即座になされたが、そう方針が一決するまでには、家中の苦悶《くもん》と迷いも一方《ひとかた》でなく、紛々たる議論もあったし玉砕的な行動に出でんとする過激な策も真剣に考えられたのであった。
「——村重に迫って官兵衛様のお救いを迫ろうとすれば、どうしても村重に与《くみ》さなければならない。さすれば、信長公の許《もと》にさしあげてある質子《ちし》松千代様のお命は当然ないものと覚悟しなければ相成らぬ。——というて、松千代様のお命を護らんがために、一党いよいよ織田方に異心なきを示すならば、村重の毒手に罹《かか》って獄中にある官兵衛様のお命は到底これを保《ほ》し難《がた》いであろう」
これが家中一党の者が方針をきめるに先だっての悩みであり、また議論のわかれ目でもあったのである。
事実、進んで主を助けんか、主君の質子を見殺しにするほかなく、質子の若殿を守らんか、獄裡の主君の生命を断《た》つにいたる。……この大苦境をどう打開《だかい》するかが問題だった。そしていかに血涙をながすも、切歯《せつし》痛憤するも、その両方の無事を計るような名案は生れて来なかった。
「さりとてこれを、ご隠居の宗円様や、病床の奥方さまにお聞かせして、いずれになすかをお伺い申すなどということは、お傷《いた》わしゅうて誰にもいえるものでなし……」
と、幾日かは家臣同志のあいだで密々《みつみつ》相談していたものであったが、当然、宗円の耳にも聞えてゆき、ついにある夜、一同が集まっている席へ、つと宗円が姿を見せて、
「迷うもおろか。わしはすでにわしの胸で、とうに極《き》めておったものを」
と、従客《しようよう》として断案を下したのである。
そのいうところはこうだった。
「官兵衛を捨てるのみじゃ。——なぜといえば官兵衛は、主命をおびて、伊丹城《いたみじよう》に赴《おもむ》き、村重が卑劣《ひれつ》なる奸計《かんけい》に陥ちて幽囚《ゆうしゆう》されたもの。正邪な歴々、天下の衆目、誰か彼を曲として憎まぬものあろうや。もし、わが子官兵衛が獄中に殺さるるとも、それ君命に殉《じゆん》ずるは武士の本分。宗円とてなに悔もうぞ。……それを恋々小情の迷いにとらわれ、いまもしわが姫路の一党が、信長公と結べる一たんの盟《ちか》いを破棄し、義に背《そむ》き信を捨て去らんか、たとえふたたび官兵衛がこれへ生きて還ろうとも、われらの上に武門の名もなし誇りもなしじゃ。ただ辱《はじ》を負うて武人の中に禄を拾うて生くるに過ぎず、人と生れさむらいの道に立ち、何の生きがいやあるべき。……迷うまでもないことよ。官兵衛は見殺しにせい、きっぱり思い捨てて策を立てい」
隠居宗円はそういって、すぐ奥へもどってしまった。あとに粛《しゆく》たる大勢が涙をすすり合うのも聞えぬ振りして——
熊野牛王《くまのごおう》の誓紙は実にこのあとですぐ持ち出されたのであった。そして十三名が血判《けつぱん》した。
「ご隠居さまのお覚悟を慥《しか》と伺ったからには、もう百人力というものである。織田方には二心なしだ。飽くまで荒木村重の曲を撃たずにおくものではない。——さりながらまた、臣として、獄中の主を見ごろしに捨て去らんなどは思いもよらぬこと。われら十三名は、各すがたを変えて、敵地の伊丹城中に潜伏し、たとえいかなる臥薪嘗胆《がしんしようたん》の苦難をしのぶとも、八幡大菩薩、産土《うぶすな》の神も照覧あれ、臣等の一命に代えても、かならず官兵衛様の身を救い出してみせる」
と、天地神明にその一心をちかい結んだものなのである。
かくてこの十三名だけは、姫路を脱して、伊丹へ潜行することに極《き》まったが、なお出発以前に、姫路一城の守りを厳としてかためておく必要に迫られた。
御本丸様、すなわち隠居宗円を中心として、残る留守組もまた、決死の人々のみが選ばれることになった。なぜならば、従来の関係上、この姫路の内にも、御着《ごちやく》の小寺家から付人《つけびと》として来ている外籍《がいせき》の家臣も多く交じっていたからである。
宗円は申し渡した。
「もとより我から求めたことではないが、小寺、黒田の両家は、ついに確執《かくしつ》ここにいたって、今はあきらかに敵味方として対立する日となった。依って小寺家より当家に来ておる客臣付人の衆は、何の遠慮も要らぬ、各支度をととのえて、以前の主筋へもどらるるがよい。越し方長らく仕えてくれて、今日このような別れをなすは本意でないが、これまた今の世のやむなき乱れというほかない。とはいえ互いにここの苦悩百難を乗り超ゆるも、ゆくての乱定まって泰平《たいへい》に会う日の作業じゃ。……別離の一献を酌んで、明日は戦場で快く会おうぞ」
そのあと、大振舞《おおぶるまい》となって、一同へ杯が与えられた。
しかしこの別宴《べつえん》が終っても、誰ひとり身支度して、小寺へ帰るといい出す者もなかった。翌朝、一束ねにした誓書をたずさえて、旧小寺家の付人のほとんど全部の者が、宗円の前に出て、このまま黒田家の家中として留め置かれたいと願った。
もちろんそれは宗円始め家中の大きな歓びであり、願いはゆるされ、あらためてその日から純然《じゆんぜん》たる家の子郎党の内に加えられた。
「たのむぞ、あとは」
十三名の決死組は、留守の鉄壁がこう固まったのを見とどけた上、年暮《く れ》から春にかけて思い思いに伊丹の敵地へ立って行った。