三
彼はよく城下を歩いた。城も小城、町も山村。殿様と知れば、路傍の者も、田の人影も、あわてて土に額《ぬか》ずいたが、半兵衛の他行は、いつも微行《しのび》ともいえる姿で、大仰《おおぎよう》さは少しもない。半兵衛は城主らしく派手派手と歩くのが嫌いであった。
それと、彼のこのごろの出歩きには、心のうちにある目あてがあった。それの解決できないうちは、彼の病も日々昂進するような気分にある。
「……ああ人の子はなお斬れぬ。貧しい土民の子なればなお不愍が増して斬れず、慈《いつく》しまれている町家の子と見ればその父母やその無心さを見ただけで、自分の考えていることも怖ろしゅうなる」
つぶうるしの鎧《よろい》を着、虎御前《とらごぜ》の大太刀を横たえて、三軍のうちに軍師として在る日は、一謀《ぼう》に千兵をとらえ、一策に百軍を捕捉《ほそく》して、これに殲滅《せんめつ》を加えてすらなお、さして眉色《びしよく》もうごかさない半兵衛重治《しげはる》も、いまは子どもの首一つ求めて、それに適《かな》う領下の者の子を見かけても、どうしても斬って帰ることができなかった。
松千代に似た子を道に見かけては、我しらず胸をどきりとさせた。同じ頃の年ばえと思って畑の子を見る目は、すぐ附近の藁屋根の下にある者を思うて、斬るに斬れない気もちになってしまう。
「そもそも、こういう策は、下の下策たるもの。他に何かよい思案はなかろうか」
それも幾夜か思って見たが、要するに、信長はあの性急をもって、斬って出せというのである。子どもの首に代えられるものはやはり子どもの首しかない。
ただここに一縷《いちる》の希望は、信長のああした気性から観て、松千代でない者の首をさし出しておいても、およそ安土の命令は一時的にも納まるものと考えられることだった。信長が松千代を一見したのも二年前であり、安土の家臣中、よくその容貌《ようぼう》を知っている者はほとんどない。
佐久間信盛にしても、役儀上、催促《さいそく》はしてよこすが、厳密な監視をしているわけでもない。加うるに、軍務と戦陣のことで、信長始め、安土衆のあたまは繁忙《はんぼう》を極めている。
「ここの一時さえ何とかおなだめして措《お》けば、やがて時がすべてを解決する。今のしのぎさえつけばよいのだが……」
半兵衛は確《しか》と信じるのであったが、それにしても、一時信長の前に供える子どもの首が要る。子どもの首。ああ——と思わず嘆息になってしまう。
「よい思案がございました」
ある夕。
傅役《もりやく》の大野と井口の二名はあわただしく彼の居室の縁先へ取次も待たず寄って来た。かかることはゆるさるべくもないのだが、大野九郎左衛門が袂にくるんで抱えているものの容子にすぐそれと察した半兵衛は、
「はいれ。……すぐうしろを閉めい」
と招き入れ、はや傷《いた》ましい眉を示して、
「首か」
と、たずねた。
「はい。……」と、二人は額の汗をこすって、なおそこへは差し出しかねていた。九郎左衛門の膝の上に蔽《おお》いかくしたまま、
「実は、河の瀬で、釣していた童が溺れ死にました。親たちが来て抱きすがって泣いているのを見かけ、いそいで菩提寺の住職《じゆうしよく》を訪れて、われらどもの衷情《ちゆうじよう》を打明け、そのなきがらを乞いうけました。……手にかけて殺《あや》めたものではございません」
井口兵助も、ともに懸命を面にあらわしていった。
「ひそかにお窺《うかが》いし奉るに、どうもそういうお考えらしい。しかしご仁慈《じんじ》の篤《あつ》いお心より、求めるに求めがたく、お悩みのご様子にちがいないと、それがしどもの凡慮《ぼんりよ》を以ても、お察しいたしておりましたので……かくは計ろうて参りました。何とぞ、これを以て、松千代さまのお命を、お救いおき下されますように。……われら両名、黒田家の臣にはござりますが、胆《きも》に銘《めい》じこのご恩は生涯忘れませぬ。われら如き者の一命にて、ご用に立つことのある日には、いつなん時なりとも、その為には差し出しまする。……お願いでござりまする」
小姓がそこへ燭《しよく》を持って入って来た。
半兵衛はつと立って、
「両名、庭へ出ぬか」と、誘った。この頃、春もやや更《ふ》けて、毎夜、庭の山桜には、水々しい月がのぼった。
その晩、白布につつまれた白木《しらき》の小箱と、半兵衛の書簡とが、竹中家の一家臣にかかえられ早馬を以て、安土の佐久間信盛の許へさし送られた。
数日の後、信盛の受取状をもって、家臣は立ち帰ってきた。その家臣からの報告によると、安土の今はそれどころでない緊張《きんちよう》につつまれていて、小箱は信盛の手からお城へ達しられたが、果たして信長は、ろくにそれを見もしなかったらしいとの復命であった。