二
ここにある十四名の同志はたえず離合自在《りごうじざい》の体《てい》を取っておく必要がある。しかし、敵地の城下なのでもちろん儘ならぬものがあったが、昆陽寺の和尚はつねにその場所と便宜《べんぎ》とをこの人々のために与えてくれていた。
「これは、荒木家の厩《うまや》仲間から、ふと耳にしたのだが、ご主君官兵衛様の囚《とら》われている場所は、城内の北の隅で、俗に、天神池と呼ばれている藤棚のそばの武器庫《ぐら》だと聞いた。——惜しむらくは、絵図面の手に入る工夫がないが」
同志のひとり、喜多村六兵衛の言である。
藤田甚兵衛も共に、
「いや、わしも、そういう噂《うわさ》は、ちらと聞いた。伊丹城の北隅には、古くから祀《まつ》ってある天満宮があったという。どうもご牢獄は、その辺《あた》りらしい」
「さすればまず、主君のご生命は、なおご安泰にわたらせられるという点だけは、確かと見てよい……慶賀にたえん」
後藤右衛門が、憮然《ぶぜん》といった。——しかしそのあとで間もなく衣笠久左衛門の口から、菩提山城に質子《ちし》として養われていた主君の子が、成敗《せいばい》に遭って、ついに竹中半兵衛の手から安土へ渡されたという事実を披露《ひろう》されると、一同は、
「無情」
と、唇をむすび、
「ああ」
と、無念の涙を嚥《の》んだまま、しばしいうことばも知らないような怒愁《どしゆう》の気をここに湛《たた》えてしまった。
「ぜひもない」——この党では老年の方といえる母里与三兵衛は、語気を一転して、人々をこう励ました。
「それはそれ、後の問題としておこう。当初より官兵衛様は亡きものとしても、松千代様はご無事を得るものとしておられている御本丸様(官兵衛の父宗円をさす)のご落胆《らくたん》は拝察するもお傷わしいが……今は嘆いている場合ではない。この口惜《く や》しさを、むろん天の鞭《むち》ともなそう。石に齧《かじ》りついても、わが殿を伊丹城の獄屋よりお救い申しあぐるこそ、われらの急務というもの。それ以外はよそ見もいたすまいぞ」
「そうだ。一念、それのみに、奮《ふる》いかかることだ」
三原右助も共にいった。——とはいえさて、それでは何の策があるかとなると、遺憾《いかん》ながら、はやここへ来てからみな半歳の余になるが、いま以て、伊丹城内へ忍び入って獄中の主君に近づくべき方策や手懸《てがか》りは、まったく見出せないのであった。
ただ一つの恃みは、白銀屋《しろがねや》新七は、いわゆる武具師《ぶぐし》として、城中の用達もしているので、いつか城内へ行く機会が生じるのではないか。そのときには、弟子ともなり職人となって、この中の一名でもが城中に入れれば——と密《ひそ》かに待っているものの、容易にそんな機会も来そうでない。
この夜もついに一同は、むなしく別れるほかなかった。そして再会の日にはと、なおあらゆる手段と手懸りを各求めあうべく立ち別れたが、その帰途、新七がひとりわが家へ急いでいると、町の入口で、呼びとめる者があった。
「しろがね屋。いま帰るのか」
恟《ぎよ》っとして、新七はその人影を、星明りにすかして見た。具足に身をかため、槍をたずさえている。どこか見覚えのあるような気もした。