一
昆陽寺までは戻らなかった。しかし加藤八弥太に引かれて新七は附近の森蔭まで行った。そこで八弥太は、
「木の根へでも腰かけろ」
といい、自分もどかと、草の中に坐った。
日頃から気性《きしよう》のおもしろい武士なので、常にはよく冗談などもいえたのだが、今夜は恐ろしい姿に見えて、新七は皮膚もそそけ立っている顔つきだった。ある覚悟をすら肚にすえていた。
「実はのう新七。へんなはなしだが、飾磨《しかま》から来ておるおまえの義妹とかいうむすめだな。あれはどうする気じゃ。良縁があれば嫁にでもやる気か」
何事かと思えば、八弥太のはなしというのは、いきなりこうなのであった。余りにも唐突《とうとつ》なので新七はまごつきもし、また、よけいに相手の心を疑った。
「わしのご主人の伊丹兵庫頭《いたみひようごのかみ》様。これはもうご老年じゃし中風の気味で、一切ご陣役も勤めておらんが、ご次男の亘《わたる》様は、お城の搦手《からめて》、北御門の守りについておられる。この亘様が、いつの間にかお菊どのを見ておるらしい——何でも町へ出られた折、お菊どのが、小女に買物を持たせ、白傘さして歩いていたのを見かけられたものだとかいうのだな。……以来、おれの嫁は、あれに限る。あれでなくては貰わんといっておられるのだ」
「……へへえ?」
ようやく新七は少し返辞《へんじ》らしい声が出せて来た。八弥太は大真面目《おおまじめ》なのである。嘘とは思われない。
「……だが何せい今は、織田軍につつまれているこの戦陣の中。まさかご祝言《しゆうげん》も運べますまいと、わしがいった。するとだ、亘様には、何も今が今というのじゃない。其方から新七へ約束だけしておけと仰っしゃるのだ。そしてまた、仰っしゃることもおもしろい。もしやがて、織田軍が伊丹城へ襲《よ》せかけて来たおりに自分が討死《うちじに》したら、その約束は元よりないものとしてどこへなりと、お菊どのの好きな家へ嫁ぐがいい。……ただその日までの約束でいいといわれるのだ」
「ははあ……、左様ですか」
新七は頷《うなず》けた。彼の職業がら、今時の若い武士たちの気性はよく分っている。恋をしようと、一個の美《よ》い鎧具足を註文しようと、彼等のあいだには常に、夢寐《むび》の間にも、「明日《あ す》は知れないいのち」という人生観があった。しかもその明日知れないいのちをいかによく今日を生きようかとする気持もつよかった。彼等のなかには、そういう欲求から起る未来の夢と直前の死とが、たしなみのような姿で、何の不自然なく一つに抱かれていた。
「——新七。ばかな相談と思うだろう。身分の相違なんてことも考えるだろう。いや、もっと困難な問題は、荒木村重の一族たる伊丹兵庫頭のお息子《むすこ》と、黒田家に由縁《ゆかり》のふかいおぬしの妹とでは、いわば敵味方のあいだ、迚《とて》も出来ない相談と、心のうちで極めてしまっておるだろうが」
新七はふたたび蒼白《そうはく》な面になった。余りにもこっちの内情に彼が通じているからだった。——だが、八弥太がそれから語り始めた仔細《しさい》を聞いてゆくに従って、新七の恐怖と疑いは、まったくべつなものに革《あらた》められた。加藤八弥太こそは実に思いもうけぬ一盟黒田武士たちの蔭の同情者であったのである。