三
いる、いる、ほんとにいる。夥《おびただ》しい蛍が群《む》れをなしている。
暗い所ほど美しい燐光《りんこう》を描いて飛び交《か》い、水辺の危ないところほど、蛍が鞠《まり》のようにたかっていた。
だが、この辺は、湿潤《しつじゆん》な地で鼻を抓《つ》ままれても分らないほどな闇だった。池のなぎさは微《かす》かにわかるが、藤棚から藤のつるが思いのまま伸《の》び蔓延《はびこ》っているし、所々には、亭々《ていてい》たる大樹が二重に空を蔽《おお》っている。
しかし彼女は、怖さも、不気味さも、何も思わなかった。ただこの城へ入るまえに、義兄の新七からはなされていたことばを胸に呼んでいるだけだった。
(たしかに、この池にちがいない。この辺りにちがいない——)と。
蛍は追わなくても、袂や胸にたかってくる。じっと、かがみこんで、それを籠に捕るあいだに、
(……オオ。あの窓)
それらしい位置を、ようやく闇に馴れたその眸《ひとみ》につきとめた。すぐ池の向う側に、水に沿って、十数間の壁となっている太柱の建物こそ武器庫《ぶきぐら》らしいのである。窓も一つ見える。けれどその窓は到底、背もとどかないほど高い。
いやそれよりも、余りに池へ臨んでいるため、その窓の下へ行くことすら、どう考えても困難であった。
(きっと、そこにいらっしゃる……)
お菊はそう信じるとともに、眼はいっぱいな涙になっていた。その人と自分の家柄とは、主従《しゆじゆう》のあいだがらで、到底、隔絶《かくぜつ》しているほどな身分の差はあったが、姫山の若き殿は、馬を打って、飾磨あたりへ来るたびに、必ず自分の家に立寄り、父の与次右衛門を、じいやじいやと慕い、小娘の彼女を友だちあつかいにして、
(ここへ来ると気らくだよ)
いつもそういっていたものである。
日が暮れて——どれ姫山の館《たち》へ帰ろうか——とその人《ひと》が家の裏戸へ駒を寄せると、小娘のお菊はいつも、ひとりでに涙がわいてならなかったものだった。そんな気もちが乙女心の何によるものであるかをも意識しないで——。
いつとはなく時過ぎ年移る間に、その人は姫山にもいなくなり、多くは風雲の中にあるとのみ父から聞かされ、またひそかに人のうわさに聞けば、もうお館には若くしておきれいな奥方もありお子様もあるとかいう。
以来、彼女は、小娘ころの、たとえば蛍の明滅《めいめつ》にも似たような心のときめきは呼びもどすまいと努《つと》めていたのである。そしてわれ知らず老いたる父と女の婚期《こんき》が過ぎかけてゆくのも思わずに暮していたが、はからずも去年、その人の奇禍《きか》を知ると、居ても立ってもいられなくなった。
父の与次右衛門にたいしては、自分の口からいえないために、幸い、出発の前に、父の家へ集まった衣笠久左衛門や母里太兵衛などに蔭で縋《すが》って、それらの同志たちには何の力を加え得る自信とてなかったが、ぜひ自分も伊丹の城下へ——と、その参加を父にも許してもらうべく、切に頼んで、願いのかなったことでもあるのだった。
——それが。そんな力もない自分が、はからずも今、何のめぐりあわせか、天の憐《あわ》れみか、こうしてその人《ひと》ありと思われる牢獄のすぐそばまで、来られたのである。彼女は、眼のまえを隔《へだ》てている闇の古池を見、彼方《かなた》の堅固《けんご》なる建物を眼に見ながらも、この機会と天祐《てんゆう》にたいして、だめだと思う気はすこしも出て来なかった。不可能を考えずに、可能ばかりを考えていた。——じっと、草むらにかがみこんでいる帯や小袖が、草の葉とひとしいほどの夜露に濡《ぬ》れてくるのも忘れて。
やがて、彼女はそっと身を起した。