五
黒田官兵衛は、むくと、首をもたげた。
そして、炎々《えんえん》たる眸《ひとみ》で、牢獄のうちを睨《ね》めまわした。
天井は高い。間口奥行《まぐちおくゆき》は広い。そして、真四角な暗闇《くらやみ》と板床であること。いつ眼をさましてみても、少しの変りもない。
変って来たのは、夏の陽気だけだ。
夏となって、皮膚の湿疹《しつしん》はよけいにひどくなり、髪の根には腫《はれ》さえもってきたが、ただそれだけの歳月が、この牢獄の内にも過ぎたことは慥《たし》かである。——時の歩み以外に待つものとては何もない。
「……夢か。……気のせいか?」
彼はまた、ぐたと、うすい夜具と枕の上に、その頭を寝かせた。
そして、しばし。
ただ一つの明り窓からかすかに聞える藤の葉の風を、聴くともなく耳にしていたが、愕然《がくぜん》と、また跳ね起きた。
「気のせいとも思われぬが。……はて。ふしぎな声を聞くものだ」
よろりと、起ちかけた。——起てないのである。体じゅうの腫物《はれもの》に、削《けず》りとられた筋肉は、起って歩く力をすらもう彼の、あの健康な体から奪っていた。
「——夢ではない」
彼は、ひかん病の赤児みたいに、そこの大床を、這い出した。
が、自らぎょっとして、横の、頑丈極まる格子組《こうしぐ》みの方を、窺《うかが》うように振り向いた。そこの境にはいつも番の武士が交代《こうたい》で付いているからだった。
——遠くに、赤い鉄脚の灯《とも》し火《び》が見える。いないようだ。官兵衛はそう見すましてからまた、窓の下まで這った。
そしてそこの板壁へ、耳も体もつけて、しばらく心を落着けていると、やはりまぎれなき人声がする。しかも自分の名をよんでいるように聞えるではないか。
実に、絶えて久しく忘れていた体じゅうの血が、突然、ぐらぐらと煮えて来るような気がした。正しく、自分を呼んでいる。——官兵衛という名の者がこの附近に二人といようわけはない。
「——な、なんだっ。だれだっ」
声いっぱい返辞したい気がした。けれど、その意欲を発することは危険極まるものであるはいうまでもない。
彼はうろうろした。
体はきかない。声は出せない。
——ふと、枯木のような腕を上へ伸ばした。その手がつかんだのは、窓から這い入っていつか伸び放題の姿態《したい》をしていた藤蔓《ふじづる》の先であった。
彼は、それを、下から引いた。
高窓の際に仰がれる藤の枝は、為に、ゆさゆさ揺れた。その揺れに——ただの風ではない意志をあらわすために——彼は長く引いたり小刻《こきざ》みに引いたりした。
すると、外から呼ぶ者の声にも、ただならぬ感情が加わってきた。そして前よりもはるかに、はっきりと聞きとれた。
「——官兵衛さまですか。この内においで遊ばすのは、姫路の官兵衛さまではいらっしゃいませぬか。……お顔なりと、お姿の端《はし》なりと、お見せください。官兵衛さま」
綿々《めんめん》と、さけぶに似たその声は、夜風のあいだに断続する。官兵衛は、のけ反《ぞ》らんばかり怪しんだ。
「……やっ? 女の声だ、女の声にちがいないが」
彼には、思いあたるものがない、やはりこうして、夢ではないと思ってしている事が、夢ではないかといぶかられるのだった。