二
いかにせん、さあといっても、急に逃げ走れる場所ではなかった。
池の向う岸には、いつのまにか見張りの城兵が来ていたのである。木蔭に立って、さっきから彼女の挙動に目をそそいでいたものらしい。
「どうしてあんな所へ渡って行ったか。何しても官兵衛に対して何か目的を抱いている女にはちがいない。——おい、おい。その蘆刈舟《あしかりぶね》でよいではないか。一棹《さお》突いて、それへ女を乗せて来い」
部将らしい者のさしずだった。まもなく二人の兵が、小さい朽木船《くちきぶね》の棹をついて、こなたへ渡って来た。彼女はそれを見つつ居すくんだままでいた。そして難なく舟のうえへ突き落され、部将らしい武者の前へ押し上げられた。
「西の丸仕《づか》えか。北の丸仕えか」
きびしい眼で訊ねられた。彼女はのがれ得ない覚悟をきめた。
「室殿《むろどの》のお側に仕えている者でございます」
すると、部将の手は、さも憎そうに、彼女の腕くびを引っ掴んで、
「よしっ、歩け」
と、命じた。
ほかの兵が一方の手を組んだ。彼女は具足と具足のあいだに挟まれて、足の地につかないように引き立てられた。
部将は権藤亥十郎《ごんどういじゆうろう》という物頭だった。武器庫の牢を番している内外の者はみなこの男の配下にあった。職責上、一婦人の行動といえど、彼は当然重大視した。
お菊をひっ立てて本丸へ来た。しかし城主の荒木村重はこよいも西の丸の方でご酒宴らしいと侍たちのことばだった。亥十郎はすぐその方へ足を向け更《か》えながら舌打ちしていた。
「どうも、室殿というのもよくない。ああいう女性にお心をおゆるしあるなど、以てのほかだ」
西の丸の庭さきへ廻り、侍臣を通じて、村重に面謁《めんえつ》を求めた。侍臣が、用向きをたずねたが、亥十郎は、
「殿、直々《じきじき》でなければ、申しあげかねる」
と、断った。
やむなくそのまま取次いだ。村重は室殿とひとつ所にいて涼をとっていた。本丸の家臣たちが悪推量していたような酒宴中のふうはない。ただ小鼓《こつづみ》が一つそこに見えたが、それも飽かれたように部屋の中に抛《ほう》り去られてあるに過ぎなかった。
そしてまた、室殿と村重も、一つ部屋にこそいたが、まったくべつな方を向いて、べつな心で庭面に向っていた。
「なに、亥十郎が会いたいと。こんな所へ来ないでもよかろうに」
村重は苦《にが》りきっていった。しかし侍臣が何事か小声に囁くのを聞くと、その眼いろは急にあらたまって、
「ここへ曳いて来い」
と、大きな踏石《ふみいし》の前を指さした。
権藤亥十郎は、直ちにすがたを現わした。そしてお菊を庭さきに引き据えて、自分も共に平身低頭した。
村重はお菊の影を、縁の上からにらみつけた。そのすさまじい眼はさすがに摂津守《せつつのかみ》村重として世に聞えている武勇をも思い出させるものだった。……しばらくはそうしていた。そしてやがて、
「ううむ、この女か」
と唸《うめ》くと、横にいる室殿の横顔を見て、彼女とお菊とを、等分に見較べるような眼《まな》ざしをした。
けれど室殿は、いとも澄ましきったものである。ちらと流し目にお菊のほうを見もしたし、村重の感情ももちろんすぐ受け取っていたろうに、飽くまで涼しそうに、廂越《ひさしご》しに、夜空の星のまたたきを見まもっているだけだった。