一
女たちばかりの奥曲輪《おくぐるわ》には、表の戦況《せんきよう》もとんと知れなかったが、伊丹城の運命は、それより数ヵ月前からすでに傾き出していた。殊に、夏に入ってからは、その落城も、きょうか明日かと思われるほど、最悪な所まで来ていたのである。
この実状は、この城の高櫓にのぼって、城下を一眸《いちぼう》にながめれば歴然とわかる。まだこの春頃は、手をかざしても、肉眼では見えなかった敵方の陣営が、春の末頃からは、諸所にその旗じるしが望まれるようになり、その包囲形《ほういけい》が、次第に圧縮《あつしゆく》されて来るにつれて、当初には、諸所各方面に、個々であった織田方の部隊が、いつのまにか連《つなが》り合って、しかも伊丹の町へ接触していた。
城外の防禦《ぼうぎよ》陣地にあって、敵の先鋒《せんぽう》と戦っていた荒木の麾下《きか》が、そこの塹壕《ざんごう》を捨てて、城中へ総退却し始めた八月初め頃から、伊丹の町中へも、織田勢の兵馬がはいって来て、町の機能《きのう》は一時、まったく停《と》まってしまった。
「おまえ達が敵ではない。おまえ達まで村重と共に謀反《むほん》したわけではあるまい。働け、働け。平常どおり生業に就け」
織田軍は、布告しているが、恐ろしさに、町民は仕事も手につかないのである。
そのうちに、労力の徴発が始まった。伊丹城の四方に蜿蜒《えんえん》と長い壕を掘る仕事だった。また壕に沿って、塀や柵を二重三重に植《た》て繞《めぐ》らす工事だった。おびただしい人員が、炎日の下に、蟻のように働いた。
これが完成すれば、いやでも伊丹城中の将士は、籠の鳥である。初めはさかんに矢を射たり小銃を乱射して、妨害《ぼうがい》を試みていたが、その矢玉も、城外の野戦でつかい尽し、すでに残り少ないことが織田軍にも見抜かれていた。しかし織田軍の作戦は、極力、味方を損じないように悠々、彼の壊滅《かいめつ》を待つもののように見える。
その寄手の総大将は、信長の嫡子《ちやくし》信忠であり、堀久太郎秀政、滝川左近将監一益《かずます》などの諸将が、それを扶《たす》けていた。