二
「もう来る。かならず来る頃だ。来ぬはずは断じてない、きっと来る」
城将が集まって、この危急に対する軍議をひらくとき、主将の荒木村重がいうことばは、極まってこれであった。信念というよりは、烈しい昂奮《こうふん》をもって、それをいうのだった。
「——すでに、この春には、大挙して、毛利家の水軍が、舳艫《じくろ》相啣《あいふく》んで来援《らいえん》にまいると、正しく我へ誓紙を入れて約束していることだ。軍備の都合上、遅れたにちがいないが、条約を反古《ほご》にし、せっかく起ったわれらを、見ごろしにする理由はない。飽《あ》くまでわしは毛利を信じて、その援助の大軍が、一日も早く、西ノ宮の海辺へ上陸して来るのを待つ覚悟だ。——それまでの籠城《ろうじよう》だ、各も頑張ってくれい」
村重のこの言には、戦いの初めから励まされて来た部下であった。実に、去年の暮も、この春も、また夏になるまでも。
しかるに、すでに半年以上も経つが、毛利輝元以下、吉川《きつかわ》、小早川《こばやかわ》の大軍が、兵船をつらねて来るというその第二戦線は、いっこう何処にも実現されない。
城将の多くは、ようやく、毛利家の誠意をうたがい始めた。そして主人の村重に対して、面と向って口にこそ出さないが、
「あさましや。恃《たの》むべからざるものを恃んでおられるのだ。……さきには、高山右近や中川清秀を両腕のように恃んでおられたではないか。その高山、中川らが寝返り打って、逸早《いちはや》く織田の軍門へ降っているのをながめながら、なおこの主人はお眼がさめない」
そう考えて、暗然たる顔いろを湛《たた》え合《あ》うのであったが、村重の毛利にたいする、今に今にの空恃《そらだの》みも、この八月になっては、さすがに口にしなくなっていた。
反対にこんどは口を極めて、毛利輝元の不義不信を罵《ののし》り始めた。九月一日の軍議のときにも、
「何らかの方法を取って、毛利家の来援を急に促《うなが》さねばならぬが、書状も度々《たびたび》やってあるし、密使も屡《しばしば》つかわしてある。この上は、自分自身が参って、吉川、小早川などにもきびしく面詰《めんきつ》するしかない」
などといっていた。
彼のその言を聞いても、諸将はいっこう浮き立たなかった。第一、そんないとまがあるかということが考えられるし、また村重自身が毛利側の代表と会見するなどと望んでも、今となっては、その場所を得ることすら困難なことは知れきっていた。
けれど、勇猛は勇猛でも、思慮にかけては単純な村重は、その可能を多少信じていたものらしいのである。——と視るよりは、或いは、事《こと》茲《ここ》にいたって、彼の頭はまったく突き詰めてしまったといった方が適切であるかも知れない。
彼は密《ひそ》かにこの城を出る考えをそのときから真面目《まじめ》に考えぬいていた。——城とともに在るべき城主たり謀反の張本人《ちようほんにん》たる位置をもわすれて——ひとり密《ひそ》かに、ここを脱して、なお在る味方の一城、摂津の花隈城《はなくまじよう》(兵庫)へひとまず落ちて行こうと肚をすえたのである。そして、一族老臣のほか、主なる城将には無断で、その支度にかかったのは、翌九月二日の宵のころであった。