一
児屋郷《こやごう》の昆陽寺《こやでら》には、ここ数日前から約十名ばかりの僧形《そうぎよう》や、武士や町人や、また医者、傀儡《くぐつ》師《し》などの雑多な身なりをした人々がひそかに寄って、そのまま一房に合宿していた。
主君救出の目的で、春以来、この伊丹附近に俳徊《はいかい》していた姫路の士たちであるこというまでもない。
初めは十三名であったが、老齢の母里《もり》与三兵衛は発病して途中から帰国のやむなきに至り、また宮田治兵衛と小川与三左衛門のふたりは、極く最近、一党にわかれて、
(官兵衛様のご救出も、近日のうちに必ず成功を見られましょう)
という吉報をもたらすべく中国へ急ぎ、一名は秀吉の陣地へ、一名は姫路の城に入って、何かの打合わせをしていた。
一党が昆陽寺に結集して、待機《たいき》していたのも、この月の十八日には、いよいよ伊丹城中の離反組が、内部から火の手をあげて、織田軍を誘い入れることになったという機密を事前に知ったからであった。
それらの情報は白銀屋《しろがねや》新七や加藤八弥太を通して細大となく、
「何日何刻に。西門の守りは誰。北門は誰」とほとんど筒抜《つつぬ》けに知ることができた。もちろん獄中の主人がなお健在でいることもわかっていた。
けれどただ一つ皆目《かいもく》知れないことがあった。それは新七の義妹の於菊《おきく》の消息である。村重や室殿に従って、尼ケ崎城へ移った形跡《けいせき》もないし、城内にもすがたが見えないというのである。
「ことによると、発覚して、不憫《ふびん》なことになり終ったかも知れない」
と同志たちはひそかに語っていた。新七には気の毒にたえないので、彼の前ではなお何もいわずにいたが、新七自身も、それは諦めてしまっているもののようであった。
そして恰度《ちようど》、十月十六日の夕も、その新七が来合わせて、
「十八日の夜更《よふけ》を計って、城内の中西新八郎以下の人たちが、城を開いて織田勢をいちどに招き入れると、両者のあいだに、万端の密計がむすばれたようですから、お望みを達する日も、あと二日、それまでは敵にさとられぬように、お辛くとも此寺《こ こ》でじっとご辛抱して下さい」
などと一同をよろこばせ、また呉々《くれぐれ》も念を押して町へ帰って行った。それが宵《よい》の戌《いぬ》の刻《こく》ころだったのである。