一
「……オ。お気がつきましたか。殿、殿」
誰か、担架《たんか》の側へ来て、顔をさしよせた。官兵衛はひとみをうごかした。それはなつかしい家臣の栗山善助であり母里太兵衛であった。
「……うむ。うむ」
官兵衛は洟《はな》みずを啜《すす》った。水洟をふきたい意識があるが手はうごかない。
「お輿の者。すこし待て」
善助は、戸板の担架を担っている兵に、しばし歩行を留めさせて、前後に従う武者たちに、
「どなたか鼻紙をお持ちあわせないか」
と、たずねた。
一名の武者が懐紙《かいし》を与えた。善助はそれを揉んで、主人の洟みずを拭った。官兵衛は子どものように鼻の奥にあるのを更にちんといって出した。
「ご苦痛でございましょうが、しばらくおこらえ下さいまし。——ご本陣まで」
顔を見知らない一将がうしろからいった。母里太兵衛が取次いで、
「陣地の通行中、ご警固くだされているのは、滝川一益《かずます》どののご家臣、飯田千太夫どのであります」
と、主人の心が休むように特にいった。
官兵衛はさすがに嗄《か》すれて糸のような声ではあったが、戸板の上に仰向いたまま、
「千太夫。大儀」
と、ひと言いった。
担架の上の重病人と思ってうしろから突っ立ったままものをいった一益の臣は、威圧《いあつ》を覚えたものか、あわてて下へひざまずいて、
「主人一益の心づけで、ともあれご本陣までお供申しあげ、信長公にお会いあった上、諸事《しよじ》、公《こう》のおさしずを待つがよろしかろうとの御意《ぎよい》に、もはや何処もかしこも味方の陣地を通ることゆえ、何の危険もありませぬが、ご案内のため、伊丹城《いたみじよう》の外よりお供させて戴いておりまする。——夜明け方までには古池田まで参りましょう。医者も一名召し連れおりますれば、何なりとご遠慮なくおいいつけ下さるように」
と、あらためていい直した。