三
有馬の池の坊へ、陣輿《じんかご》が着いた。
池の坊の主、左橘右衛門は、雇人を指図して、その重病人を人目につかない奥の一室へ案内した。そして家中の者が心をあわせて鄭重《ていちよう》に、また親切に世話をした。
一年ぶりである。官兵衛は湯にひたった。
骨と皮ばかりの体を、壊《こわ》れ物《もの》のように、女中や宿の男の手に支えられて、そうっと、湯槽《ゆぶね》の中へ沈めてもらったのである。
官兵衛は、湯槽のへりに枕した。けれど、体が浮きそうでならなかった。
「……ああ」
初めて人心地のついたものを身の中に持った。われ生きたりと思った。
「ふしぎな……。ふしぎなことだ」
今更のように回顧《かいこ》して、すべてが奇跡《きせき》のように考えられた。松千代が生きていた——これは自分の生きている以上の思いだった。奇跡以上の奇跡であった。
「みな半兵衛重治の友情によるところ」と、感じるとともにその背後《はいご》の人、秀吉の恩を感受せずにはいられなかった。ひいては、天地の意を悟らずにいられなかった。
「大きく思えば、自分になお命をかし給うものも、一子を助けおかれたものも、目に見えぬ何かの偉大なものの思し召となすしかない。官兵衛を生かしておいて、天はこの身に、何をなお世に行えと命じ給うものか」
窮極《きゆうきよく》して、彼の思念《しねん》は、そこへ行きついた。この境地には些々《ささ》たる愛憎もなく現在の不平もなかった。早く健康に回《かえ》って、天意にこたえんとするものしか疼《うず》いて来ない。
「初めから余り長湯を遊ばすとかえっていけませんから、きょうはこのくらいになされて」
と、亭主の左橘右衛門は、召使たちを督《とく》して、笊《ざる》で何かをすくい上げるように官兵衛の体を移した。
その日は垢《あか》も落とさなかった。唯、一年間の頭髪《とうはつ》が女のように伸びているので、わずかに櫛を加え、紐を以て結ばせたのみである。
虱《しらみ》のいない衣服を着て、やわらかな夜具の上に仰臥《ぎようが》すると、身を宙に泛かせているような気がいつまでもしていた。
夜に入ると、後から栗山善助や母里太兵衛などが来て、その後の伊丹の戦況をつたえた。こんどは織田軍も敵に息つかせずに、なお余勢《よせい》ある荒木村重の尼ケ崎と花隈の二城へたいして、直ちに第二次の総攻撃が加えられるであろうなどといって聞かせた。
「また竹中殿には、松千代様をお伴《つ》れして、あれから間もなく信長様へお暇をのべ、播州《ばんしゆう》へ下られました。——和子さまはしきりとお父上の側へ来たいような顔色でありましたが、初陣《ういじん》の意気ごみは格別で、お元気に竹中殿へ従《つ》いてゆかれました」
枕元で語るそれらの便りを、官兵衛は始終《しじゆう》楽しげに聞いていたが、そのうちに、湯疲れが出たのであろう、
「すこし眠たい」
と、いって眼をふさいだ。
昏々《こんこん》と眠った。
そして、どれ程な刻《とき》を経《へ》た後だろうか、ふと眼をさましてみると、枕元には静かな灯《とも》し火《び》がともっているのみで、宿の者の跫音《あしおと》も聞えず、宿直《とのい》の太兵衛、善助の影も見えず、ただ窓外の松風の声だけがひとり夜更けを奏《かな》でていた。
——水が欲しい。
と思ったが、誰もいないので、ただ眸を以て、上眼《うわめ》づかいに枕元を見まわすと、官兵衛はとたんに、ぎくとした容子であった。それは何か妖《あや》しげなものでも見たときのような愕《おどろ》き方に似ていた。
「……た、たれだ?」
思わず呼びかけたのである。明りも仄暗《ほのぐら》くしか届かない部屋の片隅に、壁をうしろにして、消えも入りたげに、じっとうつ向いている若い女の姿を見出したからであった。
たれだっと、一喝《いつかつ》されると、彼女のほうでもぎくとしたらしかった。ちらと、ひとみを官兵衛の方へ上げたが、すぐ両手をつかえて、
「菊でございまする……」
と、聞きとれないほど低い声で答えた。