二
十日ほども経つと、官兵衛は部屋から浴槽《よくそう》まで独りで通えるようになった。
「中国へ行きたい。一刻も早く、三木城の攻略に加わりたい」
すこし体がきき出すと、官兵衛はしきりにいって、宥《なだ》める家臣たちを手こずらせた。
信長からは幾度も見舞があった。使者はここへ臨《のぞ》むたびに、
「充分にお体を癒し、ご本復《ほんぷく》の上も、姫路へもどって悠々《ゆうゆう》休養されるがよい」
と、浅からざる恩命と、種々な贈物とを齎《もたら》した。
官兵衛からは、希望として、
「羽柴殿にはまだ今日も三木城を包囲長攻のまま、長陣の苦戦もただならぬものある由。病後恢復の上は、何とぞ中国の戦場に参陣の儀、従来の如くなるべしと、ご許容《きよよう》をおねがい申しあげる」
と、信長への取次を仰いだ。
もちろんその儀は仔細《しさい》なしという事ではあったが、呉々《くれぐれ》も無理をせぬようにと、重ねて信長は見舞をよこした。
「もう大丈夫。馬にも乗れる。明日はこの宿を立つぞ」
二十日目である。官兵衛はついにいい出して、肯《き》かない容子を示した。ぜひなく家臣たちは、宿の亭主に告げて、
「馬を雇うてくれ」
と、頼んだ。
母里太兵衛や栗山善助が危ぶんでいた理由は、主君の体ばかりでなく、帰路の物騒《ぶつそう》にもあった。
伊丹は陥ちたが、荒木村重のいる尼ケ崎城は、いまなお、織田軍が攻囲中であるし、兵庫の花隈城もまだ陥ちてはいない。当然、道中の危険は予想される。
でも、危険という点を理由にして止めれば、官兵衛の気性として、なお止まらない事は知れきっているので、それには今日まで一言も触れず、もっぱら他の同志を以て、途々の状況を探らせたり、どこを通過したらよいかなどを調べさせていたのである。
「兵庫口は到底、無難に通行は難しい」という報告があり、
また、
「海上から船でお渡りが最も安全であるが、大坂からお立ちに相成ることは、本願寺の通謀《つうぼう》があるから所詮《しよせん》危ない。御影《みかげ》あたりの漁船を雇って、ひそかに出られるほかあるまい」
とも、その方面の人たちからいって来た。
しかしこの辺まで聞えている風説《ふうせつ》に徴すると、その海上の往来こそかえって危険極まるものらしいのである。
なぜならば羽柴勢が三木城に釘付けにされ、織田本軍が荒木村重の包囲にかかっている現下にあって、さすがの毛利もこれを傍観《ぼうかん》していることはしていないからだった。すなわち毛利軍の独壇場《どくだんじよう》ともいうべき瀬戸内《せとうち》の海上権にものをいわせて中国沿岸は元より大坂から芸州《げいしゆう》にわたる間には、きょうこのごろその水軍たる大小の兵船がわが物顔に監視《かんし》の眼をひからせて、一舟の航行でもうかつに見のがすことはないと沙汰《さた》されている。
「万一の事に遭遇《そうぐう》して、われらの斬り死になすはいと易いが、殿のお体はまだまだ充分でないし、片脚のきかぬ御身《おんみ》を以ては、とても敵地を駆け抜けることは難しい。……一体どこを通るが、最もご無事か?」
この問題は、湯宿を立つ前夜まで、太兵衛や善助が頭をなやましていた事だった。
ところが、ここしばらく顔も見せずにいた白銀屋新七が、ふと、思いがけない妙案を携《たずさ》えて、それを土産に、出立の朝、ここの湯宿を訪ねて来た。
それは近衛家の往来《おうらい》手形だった。官兵衛の祖父明石正風と、近衛家の当主との風交《ふうこう》は、近年こそ途絶えているが、その縁故《えんこ》は歌の道のほうからいっても浅くない関係にある。新七は従来、近衛家の仕事も折々うけていたので、伊丹の囲いが解けると、同志の一名、後藤右衛門と共に京都へ出向いて、官兵衛の立場を訴え、近衛家の用務をおびて諸太夫の者が西下する旨なることを認《したた》めた公卿状を乞いうけて来たのだった。