三
杖なしでやっと歩ける程度である。負傷した片脚は、傷口の肉こそついたが、ひどい跛行《びつこ》をひかなければ歩けないものとなっていた。
「これは生涯癒《なお》りそうもない」
その朝、亭主の左橘右衛門や大勢の者に見送られて、温泉宿の軒端まで歩いて出て官兵衛は、わが片脚をながめてそう呟いた。
雇い馬が曳かれて来た。
官兵衛は、鞍へ手をかけてみたが、乗れなかった。人々に扶け上げられて、ようやく鞍のうえに納まった。
「武士が独りで馬に乗れないでは不自由だ。これから屡《しばしば》乗り方を稽古せねばなるまい」
馬上で笑った。それを仰いで、宿の者大勢が、軒下で頭を下げた。
「永々、世話になったのう」
官兵衛は駒をすすませた。乗るには不自由でも、乗ってしまえば、片鐙《かたあぶみ》でもさしつかえないふうに見えた。
すると、栗山善助が、馬の側へ寄って、
「殿、殿。ひと言、何ぞおことばをかけてやって下さい」
と、小声で催促した。
彼が促《うなが》す目のほうへ官兵衛も眼を向けていた。池の坊を出てすぐの湯町の辻に、於菊《おきく》が佇《たたず》んで見送っていた。側には、義兄の白銀屋新七がいた。ふたりとも、官兵衛のひとみを自分たちの方へうけると、膝まで手をさげて、黙然《もくねん》と、別れの意を告げていた。
官兵衛は馬を寄せて、ふたりのすぐ前まで行った。於菊は俯向いたまま、なお顔を上げないのである。官兵衛は、彼女が面を上げるまで待っているように眺めていた。
「於菊」
「……はい」
「いつ飾磨《しかま》の家へ帰るか」
「…………」
於菊は、なぜか真っ紅になった。瞼は見せないが、泣いているらしいのである。彼女の足のつまさきに涙がこぼれた。
官兵衛は、涙の意味を覚《さと》らなかった。単なる別れをかなしむものとしか思わなかった。で、むかしのような気がるさでその哀愁をなぐさめた。
「まだ、当分はむずかしかろうが、三木城でも陥《お》ちて、一と戦陣《いくさ》終ったら、また与次右衛門の家へも遊びに立ち寄ろう。……それまでには、そなたも飾磨へ帰っているだろうし……」
すると彼女の涙はなお速く頬を走った。見るに見かねたように、義兄の新七が、あわてて彼女に代っていった。
「殿さま。於菊はもう飾磨へは帰りませぬ」
「ほう。——此地におるか」
「どこに住むことになるやら分りませんが、さるお方と縁談がととのって、やがて嫁ぐことになりました」
「なに、他家へ嫁ぐか。……そういえば、もう嫁ぐ年頃だのう」
急に官兵衛も淋しさを抱いたようだった。彼女の姿をしげしげとながめ直した。きのうまで、病を養っていた自分の部屋には、彼女の挿《い》けた一枝の菊花が丹波焼《たんばやき》の壺によく匂っていた。それをあとの部屋へ置き残して来るのさえ今朝は何となく儚《はかな》い気がしたものを——と、彼はふと多感な血に満身を駆け荒された。
が、飽くまでさりげなく、
「そうか。それはまあ目出度い。して、嫁ぐさきは何家か」
「もと荒木の家中でしたが、このたびの戦いを機に、織田勢の麾下《きか》に加えられました伊丹兵庫頭の子息、伊丹亘《わたる》という者へ、縁があって、嫁ぐことになりました」
義兄としていうにもいい辛そうな新七の容子だった。湯町の辻のような人目のある所でなかったら於菊は泣き仆れたかもしれなかった。義兄のうしろにかくれて、袂で顔を掩《おお》っていた。
「ふうむ。降参の将伊丹兵庫のせがれに嫁ぐとは、おかしな縁だの——いやたとえ降将《こうしよう》であろうと織田殿に随身の上は官兵衛も一つ麾下《きか》の人。めでたく過せよ」
「ありがとうござりまする」
「於菊。ながい間、なお、城中のことも、官兵衛のいのちのあるうちは、忘れはおかぬ。嫁《とつ》いだうえは良い妻になれよ」
於菊は、答え得なかった。なお新七の背の陰にいた。けれど、官兵衛の駒がうごくせつな、袂を除けて、懸命に馬上の人をひと目見た。官兵衛もふり向いた。そして余りに傷々《いたいた》しい瞼をちらと見たので、彼はあとへ惹《ひ》かれる心と反対に、馬腹へ軽い鞭を当ててしまった。
太兵衛、久佐衛門、善助たちも、それに急《せ》かれて、別れのことばもそこそこ、駒の足に倣《なら》って駆けて行った。