四
兵庫口も播州へかかっても、道は難なく通った。案ずるより生むが易しで、護符《ごふ》としていた近衛家の往来状《おうらいじよう》も、それを出して示した所は、花隈城に近い湊川の渡しの木戸一ヵ所しかなかった。
「姫路表では、ご隠居さま始め、奥方様や和子様方まで、どんなにこの度《たび》のお帰りを歓《よろこ》びぬいて、日々お待ちになっておられるか分りますまい」
善助や太兵衛などまで、途々、眼に描いてそう噂するのを官兵衛もまた、一刻も早く会いたいような面持で、
「そうだろう。何しろ、生きて還《かえ》れるはずもない者が、こうして生きて還るのだからな」
と、楽しげに語らい合っていたが、やがて、加古川あたりまで来ると、急に道の方向を更《か》えて、
「わしには、善助一名ついて来ればよい。久左衛門と太兵衛はさきへ帰って、姫路の者へ、わしの無事をよく伝えてくれい。そのうちに三木城でも陥ちたらば、いずれ一度は立ち帰るが」
と、国許への言伝てだけを途中で与えて、自身は直ちに、秀吉の長陣《ながじん》している北播磨の奥地へ向ってしまった。
山地へ向って行くほど、秋の色は深く、急に季節を覚え出した。途々の悪路には、輜重《しちよう》の車馬が踏みあらした轍《わだち》が深く刻まれている。到るところ柵の破壊されたあとや塹壕《ざんごう》のあとが見られ、草むらに落ちている刀の折れやかぶとの鉢金《はちがね》の錆《さび》を見ても、ここのあたりの戦いの長い年月と激戦が偲ばれてくる。
その後、秀吉の軍は、一塁一塁を力攻して、いまはかつて官兵衛がいた頃の平井山の本陣をずっと前方へすすめ、依然《いぜん》として、なお陥ちずにいる三木の城と対《むか》い合っていた。呼べばこちらの声が敵へとどくぐらいな近距離の一高地に、秀吉の陣営は移されている。
「孝高《よしたか》。いま帰りました」
「おお。官兵衛か」
「ご心配をおかけ致しましたが」
「真《まこと》に一時は案じたぞ。……だが、よくぞ、よくぞ」
秀吉と官兵衛とが、一年余を経て、ここで再会したときの両者の感激は、到底、筆舌には尽し難いものがあった。またそれを語り合うに必ずしもことば多きを要さない二人でもあった。当時の実状を誌した「魔釈記《ましやくき》」の原文はもっともよくその間の状況を伝え、こう二者の英傑の一面にある風情をもよく叙《じよ》していて余すところがない。
——筑前守《チクゼンノカミ》、孝高《ヨシタカ》ニ会ヒ給ヒ、其手ヲ取リテ、顔ニ当テ、マヅ今生ノ対面コソ悦シケレ。抑《ソモ》、コノタビ命ヲ捨テ、敵城ヘ赴カレシ忠志、世ニ有難シ、ワレコノ恩ヲイカニ報ズベキト、前後モ覚エ給ハズ泣給ヘバ、孝高モ暫シ涙ヲセキアヘザリシト。
官兵衛は慰められた。信長の恩命よりも、菊女の挿《い》けた一枝の花よりも——である。秀吉がなみだをもって、自分の手に注いだ男と男の心契《しんけい》一つにすべてを忘れ得ることができた。一年余の惨苦《さんく》も、生涯の不具となった身も、悉《ことごと》く忘れてなおその上にも、
——この人のためならば。
と、思い強めずにいられなかった。