二
秋も更けた頃である。半兵衛重治の病は急に篤《あつ》いと沙汰された。彼の陣屋の幕は寒々と夕風に揺れ、その宵、丸木組の病屋のうちには、秀吉も枕頭《ちんとう》に詰め、官兵衛も昨夜以来、詰めきって、あらゆる看護《みとり》を尽していた。
「もはやお別れの時が来たように思われます。殿にもおすこやかに。官兵衛殿にも」
重治は末期《まつご》を覚って枕頭の人々へ告げた。秀吉は掻《か》い抱かんばかりに摺《す》り寄って、
「今、中国の事もまだ半途なのに、そちに別れるは、闇夜に燈《あかり》を失うような心地がするぞ。師とも仰ぎ、また、秀吉の片腕とも恃《たの》んでいたのに、はや先へ逝《ゆ》くか。つれないぞよ重治。……重治」
と、慟哭《どうこく》して、次の間には多くの近臣もいるのに、見得《みえ》もなく惜しみ嘆いて止まなかった。
半兵衛は弟の竹中重門と小姓を呼んで、静かに身を起してもらい、秀吉に向って、謹しんで半生の恩顧を謝し、そして語気常のごとく、
「人の死は、梢《こずえ》のものが、地に帰するようなもので、逝く者は無情、残る者は有情といえ、これを春秋の大処から観れば、極めて平凡な自然のすがたでしかありません。わが殿ともあろうお方が、今更、未練なおん涙は、日頃の殿らしくもないことです。わけても今は信長公の大業もまだ中道にあり、あなた様のご前途には、並ならぬものがありましょう。愚痴《ぐち》に暮れているときではありません。……且《か》つは、この重治が亡い後も、官兵衛孝高どのがおられます。孝高どのこそ、それがしに取っても、真に士は士を知るの知己《ちき》でした。また、将来のお計りも、すべて、お嘱《まか》しあって、万まちがいないでしょう。……不肖《ふしよう》の些《いささ》か学び得てお役に立ちそうなことは、今日までに、ほとんど申しあげて、篤《あつ》くご会得《えとく》もあることと存じまする。……」
いい終ると、屋外の夜色《やしよく》を、沁々《しみじみ》見て、
「ああ、月白風清《つきしろくかぜきよし》。……この世は真に美しいところ哉。さて、先の旅路はどんな月夜やら」
つぶやいて、ふたたび、そっと仰臥《ぎようが》させてもらい、かねて生前からととのえておいた具足櫃《ぐそくびつ》の中の数珠《じゆず》と法衣を求めて、側《かたわ》らに置かせ、瞑目《めいもく》、ややしばらくであったが、やがて細目にあたりを見まわして、おさらばという一語を洩らしたようであったが、ときすでに脈は絶えて、官兵衛が呼んでも、秀吉が呼んでも、ふたたび答えはなかった。
「——松千代の間に合わぬのが残念であった」
と、官兵衛はそれのみを繰返した。重治が危篤《きとく》に落ちるとすぐ使いを姫路へ派して、
(そなたの大恩人がご重態だからすぐ看護に馳せつけて来い)
と、迎えを出していたのだった。
松千代はその夜遅くここへ着いた。母里太兵衛、後藤右衛門などとともに、馬をとばして来たのであったが、ついに生前には間に合わなかった。この少年も、さながら十年も側にいた恩師を亡《うしな》ったように、重治の死をかなしんだ。
いや、この若くして偉大なる軍師の死は、寄手全軍の上にも、悲愁《ひしゆう》をたたえずにいなかった。
——此人アルトキハ陣中自ラ重キヲナシ、将卒モミナ何トナク安《ヤス》ンジケリ。——とまで、三軍に仰がれていた重治だった。病躯は重い鎧にも耐えぬほど弱々しかったが、官兵衛孝高とともに、秀吉の双璧《そうへき》といわれ、智略《ちりやく》の嚢《ふくろ》と恃まれていた彼でもあった。
「そうかなあ。——あれでまだお齢《とし》は、わずか三十六歳でしかなかったのかなあ」
と三軍、士卒の端《はし》にいたるまでが、その夭折《ようせつ》を、惜しまぬはなかったという。