三
十二月に入ると、摂津《せつつ》方面の戦況は、急転《きゆうてん》直下を示した。いうまでもなく織田軍の優勢が、荒木一類を悉《ことごと》く掃蕩《そうとう》し終ったのである。まだ、伊丹を支《ささ》えていた頃、
(村重を説いて、尼ケ崎、花隈を開城させ申さん)
と織田軍に約して城を出た荒木の老臣たちは、村重が肯《き》かないために、味方の内にも停《と》まれず、織田軍にも投じかねて、ついに何処かへ逃亡してしまった。
その後、伊丹が落ちると、
(ここも危うし)
と見て、村重は、尼ケ崎へ移った。そしていよいよ、敵の急追《きゆうつい》迫るや、ふたたび密かに城を脱して、兵庫の浜から船で海上へ逃げ、毛利家の水軍に投じて、援けを乞うた。
世人は嗤《わら》った。
(毛利の援助と誓約を信じて、信長に叛《そむ》いた村重ではないか。伊丹、尼ケ崎、花隈の三城が攻め潰されても、まだ援けにも来ぬほど不信義な国を恃《たの》んで、まだ目も醒めずそこへ庇護《ひご》してくれと逃げ込んで行くとは——。はてさて、浅ましい限りではある)
けれどやがて、その年十二月十九日の頃には、世人はもっともっと深刻な浅ましき武門の末路《まつろ》を見た。それは村重やその一族が織田軍の手に委《ゆだ》ねて行った妻子老幼、召使の女子たちの処分であった。
尼ケ崎の七つ松で、信長は、かかるあわれな者たちを、仮借《かしやく》なく一まとめに殺させたのである。いかに逆徒《ぎやくと》の遺族《いぞく》とはいえ、卑劣《ひれつ》な武人への見せしめのためとはいえ、それは余りに厳しい惨刑《さんけい》であったようだ。火を用い、槍を用い、鉄砲を用い、五百余人の男女を辻々で処刑《しよけい》したので、世人は信長のきびしさに戦慄《せんりつ》した。そして誰も皆、信長の一面にある残虐性《ざんぎやくせい》というものに少なからず眼を蔽《おお》うた。
しかし、その信長に対しては、誰も非難を向けられなかった。当然、荒木村重だの、その一類などの、男どもの卑怯《ひきよう》を罵った。武将の風上《かざかみ》にもおけない者だと悪《あ》しざまに噂した。
ところが、そうした卑怯者揃いの男女とは反対に、ひどく最期のいさぎよい一人の女性がまた評判となった。その女性も、当日、七つ松の辻で斬られたうちの一人であるが、車から引きずり降ろされても悪《わる》びれず経《きよう》帷子《かたびら》のうえに色よき小袖を着、いざ、処刑となると、
「しばらくお待ちください」
と、声もすずしく辺りを制し、帯をしめ直し、髪の根高々と揚げ、いと神妙に、
「よろしゅうございまする」
と、合図して、男も及ばぬ尋常な最期をとげたというのであった。
「あれはもと伊丹のお城にいた室殿《むろどの》という女子だそうな」
と誰からともなく沙汰されたが、彼女の死後、幾刻も経過せぬうちに、尼二人ほど連れて、その首級と小袖とを、貰いうけて行った婦人があった。
「室殿の妹であろうか」
「どこかの武家の奥方らしいが?」
人々はまた、それについて、しきりに詮索《せんさく》し合ったが、その女性の身元のほうは、ついに誰も知る者がなかった。
分ったのは、よほど後のことであるが、織田信澄麾下《きか》の新参で、伊丹亘《わたる》という者の妻なりと知れた。そしてその妻女の名は、菊とも聞えた。