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黒田如水129

时间: 2018-11-16    进入日语论坛
核心提示:城なき又坊一 次の日、官兵衛は、軍使として敵の三木城へ赴《おもむ》いた。 今なお足の傷手《いたで》は癒《い》えないので、
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 城なき又坊
 
 次の日、官兵衛は、軍使として敵の三木城へ赴《おもむ》いた。
 今なお足の傷手《いたで》は癒《い》えないので、歩行のときは甚だしい跛行《びつこ》をひく。(これは痼疾《こしつ》となって生涯の不具となった)——で、彼は、栗山善助に命じて、軽敏に乗用できる陣輿を製《つく》らせておいた。その日はそれに乗って、敵中へ使いしたのである。
 彼の陣輿は、彼の工夫を多分に取り入れた物だった。従来の輿《こし》では、重きに失して、進退の敏速を欠く。また近来用いられ出した駕籠《か ご》では、敵に出会って働きができない。そこで彼は、輿と駕籠を折衷《せつちゆう》した新様式の陣輿を案出した。
 それの用材にはほとんど竹を用いた。重量を軽減するためである。上の覆屋根は除き、船形の座だけを深目にして、すっぽり坐りこむ。そして神輿《みこし》のように高々とかつがせるのだ。担い棒は二本通し、前棒に二人、後棒に四人、都合六人して担がせた。これなら担う者も軽々と進退できるし、乗っている官兵衛も坐ったままで、長柄《ながえ》でも刀でも使い得る。いざとなれば、乱軍の中へ駆けこんでも、自由に敵と渡り合えるという点を主眼としたものだった。
「どうだな。太兵衛」
 途中、その上に揺られながら、官兵衛はうしろに従えて来た母里や栗山を顧《かえり》みていった。
「古今にわたって、こういう乗物を戦陣で用いた武将はあるかの。わしを以て嚆矢《こうし》とするだろうな」
「左様ですな。恐らくございますまい。むかし天慶《てんぎよう》の乱《らん》に、将門《まさかど》の猛威に抗し難くなった軍勢が、彼の叔父にあたる者の木像を輿に乗せて陣頭にかつぎ出し、叔父に矢を射るかと将門《まさかど》を威嚇《いかく》して追い崩《くず》したということは聞きましたが」
「官兵衛は生きておるからな。木像では前例にならぬよ」
「綸巾《りんきん》をいただき羽扇《うせん》をもって、常に三軍を指揮していたという諸葛孔明《しよかつこうめい》は、四輪車という物に乗って戦場を奔馳《ほんち》していたそうですが」
「孔明か、なるほど。しかし孔明の四輪車よりは、このほうが我が国の武士にはふさわしい。いちど乱軍の中を駆けてみたいものだ」
「今日にも或いは、そんなことが?」
「いやいや。今日はあるまい。伊丹で懲りている官兵衛だ。二度と拙《まず》い策は踏まん」
 三木城中に臨む前から、彼には充分使命を果す確信があるような口吻《こうふん》だった。使命の目的はいうまでもなく、籠城の責任者に腹を切らせて、いまや餓死に瀕している全城数千の人命を助けるというにある。
 その夜、官兵衛は、三木城主の別所小三郎と会見した。月明りのみで、燈火すらない城寨の一室だった。
 城主小三郎は、まだ二十六歳の若大将であったが、このとき明《あか》らさまに官兵衛に語った。
「この通り燈火もないのは、燭の油も食べ尽したためです。城中、鼠の物音もしません。鼠も食べ尽しているからです」
 それから種々述懐《じゆつかい》した後、小三郎はすずやかに誓約した。
「元々、筑前守のお扱いで、ひとたび織田家に盟を約しておきながら、また毛利方へ寝返ってまる二箇年の歳月、ここにたて籠《こも》って来たわれわれのことですから、それがし以下、責《せめ》ある者が、腹を切るのは当りまえです。けれど、一族以外の将士に、降人扱いの辱《はじ》を加えらるるにおいては、彼等とても生きてかいなく思いましょうし、われらの切腹も意義をなしません。城中の者どもを、ただにご助命あるのみならず、それらの点をも、武門の情けと礼を以て、ご処置くださるなれば、お申し入れに伏しましょう」
「その辺の斟酌《しんしやく》には、ずいぶんご寛大な筑前守様ではあるが、この官兵衛もきっとお計《はから》い申しておく」
 それから官兵衛は他の一族の者や老臣たちとも会見した。すでに肚と肚で語り合っていた後藤基国や小森与三左衛門などもその中には交《ま》じっていることなので、談《はな》し合《あい》は極めて円滑にすすんだ。
 しかしその日以後、重ねて、三、四回にわたる会合が行われたのは、相互二年間という長日月の攻防を繰返し、言語に絶した苦戦と苦戦を頑張り合って来た敵味方の帰結としては、まず当然といっていいほどの折衝《せつしよう》であった。
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