なぜであろうか——というに。ひとりここの藤氏《とうし》の長者ばかりでなく、禁中でも、朝臣一般のあいだでも、“触穢《しよくえ》”といえば、おぞ毛をふるって、穢れ払いに、幾日でも、門を閉じ、衣冠を廃して、参内《さんだい》も休《や》め、客を謝すという例を、誰もが知っているからである。
強烈な信仰は、半面に、極端なまでの迷信をいつか伴っていた。禁厭《まじない》、祭祝《さいしゆく》、祓除《はらいよけ》、陰陽道、物忌《ものいみ》、鬼霊《きりよう》、占筮《せんぜい》など、多様な迷妄の慰安をもたなくては、生きていられない上流層の人々だった。わけても、穢の思想は、根ぶかく、神道とも仏教ともからみ合せて、実生活の一面に、深刻な病的心理を蝕《むしば》ませていた。
たとえば、死穢《しえ》に触れたとなると、三十日の忌《いみ》を最上とし、少なくも、七日は、祓除をしなければならない。
産婦にふれた者、家畜の死にふれた者、火を出した家の者、みな、触穢の者と忌まれるのである。
その一人ばかりでなく、周囲の者、家人、時には、出入りの知人までが、同様な目に遭うこと、少なくない。
史書に、実例を索《もと》めれば、枚挙にいとまがないほど、幾らでも、事件が出てくる。二、三例を拾ってみれば——
=朱雀帝ノ天暦《テンリヤク》元年。左近衛府ノ少将ノ飼犬ガ、死者ノ骨片ヲ咥ヘテ来タトイフノデ、府ハ、三十日ノ穢トナツテ門ヲ閉ズ。
=同月、府ノ井戸ヲ、ソレト知ラズ、修法所ノ童ガ汲ンデ用ヰタト騒イデ、大内裏中、七日ノ穢ニ服ス。
=光孝帝ノ世代、貞観殿ノ南ニ、少女ノ死髪ヲ見出デ、諸司《シヨシ》釈典《シヤクテン》ヲシテ、三十日ノ祓《ハラヘ》ヲス。
このほか、産児の臍緒《え な》が落ちていたというので、辻の通行止めがあったり、火災の出た場所の土をふるわせて、火の神を祀《まつ》ったり、およそ気病《きやま》いの厄神《やくがみ》が、上流層の心に、これほど悪戯を振舞いぬいた時代はない。
これは、穢とはいえないが、王朝の華奢に彩られた当時の貴族たちが、常日頃には、物の祟りだの、生霊《いきりよう》だの死霊だのというものの実存を信じて、ほとんどが、神経質的な性格をおび、中には、狂疾にすら見える者が生じたのは、栄華の独占が、必ずしも、幸福のみではなかった事の一証といっていい。
加うるに、この階級の驕奢淫蕩は、各人の生命を、みな短くしていた。三十歳、四十歳を多く出ぬまに、夭死《わかじに》する者が多かった。——これをまた、物怪《もののけ》の祟りとし、菅原道真の怨霊がなすところであるという説を、かれらは本気で信じたのである。
延喜の当代、その最も陰鬱な実例は、現在の宮中にあった。時の醍醐帝は、道真怨霊《みちざねおんりよう》説を、心から信じて、ついに不予になられ、その皇太子、寛明《ひろあきら》親王なども、生れて以来、三年の間、一日も太陽の光にあわすことなく、夜も昼も、帳内に灯をとぼし、衛士を徹夜交代させて、いたいたしい白い一肉塊のあわれな生命の緒を、ひたすら怖れ守っていたという事実すらあるのだった。