常平太貞盛は、もう誰の眼にも、坂東者とは、見えなかった。父の国香に似て、背もすぐれ、面貌《おもざし》も上品だし、都の知性も、身について、公卿真似《くげまね》の、優雅をつねに忘れない。
身だしなみもいい。執務もまじめである。有為な青年だ——と、たれにも、感心されている。
勤めている蔵人《くろうどの》寮《りよう》に、余暇があると、かれは、小野道風《おののみちかぜ》の家へ、書道を習いに通っていた。
道風は、紀貫之《きのつらゆき》などとならんで、当代随一の名筆家といわれて、その道においては、名声ある人だったが、家へたずねてみて驚いたことには、その屋敷のひどい貧乏さであった。——が、考えてみると、かれの官における身分は、少内記《しようないき》にすぎないのである。史生や書記生に、毛が生えただけのものである。
それでいて、年はもう六十をこえ、子が多く、孫もたくさんいる。書斎の板縁は腐っているし、蔀《しとみ》や妻戸もガタガタなのだ。そして、邸内の草茫々たる一隅には、幼児《おさなご》のおむつが干してあったり、幼子が、食物をねだって泣きぬいている声までが——やしきは広いが——何となくつつ抜けに、風も一しょに通っている。
だが、道風は、書家である。筆硯のそばに、いつも独自の天地を楽しんでいるふうだ。しかし、この老書家は、行儀がわるく、夏など、冠だけはかぶっているが、羅《うすもの》の直衣《のうし》の袖などたくしあげて、話に興ずると、すぐ立て膝になり、毛ぶかい脛《すね》や腕をムキ出しに談じるのである。
はなし好きで、文学のことになると、すぐ熱しるが、より以上、夢中になるのは、時憤《じふん》であった。時局や政治について、どこから聞くのか、なかなか事情通である。そして、結論は、いつも、「閥族政治は、不可《い か》ん」——である。それから、また、
「君側を、清新にしなければだめだ。もう小手先の、小政策では、どうにもならない。藤原氏が政権を離さないうちは、それも見込みはない。……が、いまに見て居給え。こんなことを、やっているうちに、何が、起るかしれんよ。天を畏《おそ》れざるも甚だしい。民は、ウジ虫じゃない、人間だからね。この人間が、地の底に、怨みをふくむこと久しいと、やがて、地熱になり、地殻が、揺れ出すよ。地震《な え》だな、大地震がやってくる。——道真の死を、怨霊とふるえ上がったくせに、まだ、性コリもなく、政権にしがみついている。こんどは、何が襲《や》ってくるか分らん。わしには分るな。それがどんな怨霊かは分らないが、襲《や》ッてくることだけはたしかだよ」
というふうに、時もわすれ、舌禍《ぜつか》の難も知らぬげに、残暑の蠅を、蠅叩きで、叩きながら、藤原氏の華奢我欲をののしり出すのである。
こうなると、いつ果つべしとも見えない気しきなので、きょうも、そこを訪ねていた常平太貞盛は、
「先生。……実は、ちょっと今日は、さるお方の許へ、寄り道しますので……」
と、逃げ腰をうかせた。——すると、道風は、
「アアそう……」とかろく舌鋒をおさめて、自分も、乾いた硯の蓋《ふた》をしながら、
「寄り道? ……どこのお館。歌の会でもあるかの」と、たずねた。
貞盛が、いつも愛顧をうけている右大臣家の御子息、九条師輔さまの所へ——と答えると、急に、それで思い出したように、道風は、立て膝を上げて、かたわらの書棚から、一帖の書の手本を取り、無造作に、彼に托した。
「長いこと、お頼まれしていたのじゃが、気がすすまんのでね……放っといたが、ついでがあったので、書いといたよ。これを、師輔君に、さしあげてくれい。……書いてあげたところで、どうせ、ろくな手習いもしまいがね」
「かしこまりました。では……たしかに、おあずかりして」
と、貞盛は、匆々に、そこのあばら屋同然な門を辞した。