まだ、将門が都の左大臣家にいた頃。——一年《ひととせ》、藤原純友が、伊予ノ国へ帰るというので、友人ども大勢が、一舟《いつしゆう》を棹《さお》さし、江口の遊里で、盛大な壮行の宴をひらいて、夜もすがら大乱痴気《らんちき》をやって別れたことがある。
不死人と、会わないのも、それ以来の——久しいことだった。
ひとつには、将門が、左大臣家から滝口の衛士へ、役替えされたためでもある。
その間に、左大臣家にあだした八坂の仲間が検挙され、首魁の不死人は刑部省の牢で獄死したと、噂された。
その後、純友が二度目に上洛したとき、将門は、彼と叡山の一角へ登った。酒を酌みながら、共に、青年客気《かつき》の夢に酔い、平安の都を、眼下に見て、
(みて居給え。いまに、南海の一隅から、大事を挙げる天兵があるぞ。貴族政治の腐敗の府を揺り潰《つぶ》し、天下の窮民に、慈雨と希望を与える者が現われたら、それは伊予の純友だと思ってくれ。——君も坂東の曠野に生れ、しかも、帝系の家の御子ではないか。純友、西に立つと聞いたら、君も、東に立て)
こう、情熱の賦《ふ》を歌われて、将門も、
(うん。君のいう通りだ。君のいう事を聞いていると、じつに、愉快になるよ)
と、いった。
純友は、片手に杯をあげながら、
(じゃあ、今日の誓いを記念しよう。君も、杯を持て)
といい、二人して、乾杯した。そして、呵々《かか》、大笑した。——都の春の一日には、滝口の小次郎に、そんな記憶も遠くあるにはあった。
(不死人の生死が分らない。分ったら、伊予へ、知らせてくれ)
とは、そのとき純友から初めて聞き、また、依頼もされた事だった。そのため将門は、刑部省の獄司、犬養善嗣をたずねて、探ってみたこともある。しかし、八坂の仲間とも、連絡が絶え、不死人の消息も不明のまま、以来、忘れるともなく忘れていた。——殊に、帰国の後は、生活も頭も一変していた。それどころでない事々日々に追われ通している。
「……時に。おれの事ばかり、問われたり話したりしているが」と、将門は、酒景の一新したところで、あらためて、客に杯を呈し、話題を、不死人の身の上に向け更《か》えた。
「いったい、和主は、その後、どうしていたのだ。——獄死もせず、生きていたことは、今、眼に見ているが、この坂東の遠くへまで、将門を訪ねて来たには、何ぞ、仔細がなくてはなるまい」
「それはあるとも。たれが、的《あて》なく、こんな遠国へ来るものか。いかに、小次郎将門がなつかしいとて」
「聞こうではないか。まずそれを……」
「ひと口にいえば、藤原純友の使者だ。じつは、この春、瀬戸の室《むろ》ノ津《つ》で純友と落ちあい、いちど東国へ下って、小次郎将門と、往年の約を、そろそろ実行に移す準備にかかってくれと、いわれて来た」
「往年の約とは」
「和主と純友とが、杯をあげて誓ったとかいう——叡山の約だ」
「待ってくれ。べつに、おれは何も、約束はしないが」
「いや、純友は、打ちあけた。おれだけにはと、その秘密を」
「そうかなあ……。そうかなあ? あの時」
将門は、首をかしげた。
共に、酒中、虹のような気を吐いた事は覚えている。純友が、腐敗貴族をののしり、慨世《がいせい》の眼《まな》じりをあげて、塗炭の民を救えとか、救世の慈父たらんとか、くだを巻くようにいったのも、記憶にはないことはない。
けれど、それは、純友の十八番《お は こ》なのだ。酔えば必ず出る語気や涕涙《ているい》であって、叡山の日と限ったことではない。ひとつの慷慨癖《こうがいへき》だろうくらいに将門は受けとっていた。多少、自分の方にも、世にたいして、彼と同様な、不平や憤慨もあるので、飲むにも、歌うにも、怒るにも、伴奏的な乾杯はしたが、天下顛覆《てんぷく》の密盟などを、そんな酔中に、あっさり結ぶわけもない。それを「叡山の約」などと、物々しく、今ごろ持ちこまれては、まごつかざるを得なかった。将門は、返辞に困った。
「むむ。……そういえば、純友は、大望めいた事をよくいっていたが、瀬戸内で海賊を働いた前科もあるから、おれは、その事かと聞いていたのだ。叡山の約とは、何をさすのだろうか」
「あはははは。隠さんでもよい。おれも一味の人間だ」
「でも、それについて、使いに来たというのは?」
「まあ、そう性急に、片づけるにも及ぶまい。おたがい、遠大な計をもつ身だ。当分は、厄介になるつもりだから、折を見て、また篤《とく》と、談合しよう。……それよりも、その後はどうだ。……え、将門。あの江口の遊宿《や ど》の草笛みたいな君には、その後、出会わないのか。あはははは。まだ、独身《ひとりみ》だというじゃないか。意気地がないな、いつまでも」