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上杉謙信94

时间: 2018-11-29    进入日语论坛
核心提示:山海美事 戦場こそ、年々に変って行くが、戦は川中島以後も、絶えることなく続いた。 永禄五年には、信玄が上野に乱入したので
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 山海美事
 
 
 戦場こそ、年々に変って行くが、戦は川中島以後も、絶えることなく続いた。
 永禄五年には、信玄が上野に乱入したので、謙信も上州沼田へ出馬した。
 六年には、佐野城を救うため、関東へ出征し、また翌七年には、ふたたび川中島へ陣した。
 このとき、信玄が、こんどは飛騨へ軍を向け出したからである。——八年七月にも、その信玄を牽制《けんせい》するため、越軍も信濃へ入った。
「甲州の足長どの(信玄のこと)には、老来いよいよお足が伸びてゆくふうだな」
 と、謙信もあるとき戯《たわむ》れていったほど、信玄の八面六臂《はちめんろつぴ》な行動は、連年予測をゆるさないものがあった。
 そのうちに、この足長どのも、遂に、その長い足を敵に咬《か》まれて、生涯いちどの悲鳴をあげたことがある。
 永禄十一年から元亀《げんき》元年にわたるあいだ、この長い年月、甲州には塩の無い生活が始まっていた。国中、塩攻めになったのである。
 足長な信玄が、駿河へ兵馬を出したことから、敵方の苦策によって、反噬《はんぜい》をうけたのだった。今川、北条の二家が相提携して、
「信玄の勢力下へは、一合の塩も入れるな」
 と、甲信二国と上州の一部にかけて、厳重な輸送停止を実行し、もし眼をかすめて一握りの塩でも敵に売った者があれば、斬罪に処すると発令した。
 半年や一年は貯蔵で凌《しの》げた。また山中や河川で小量な闇取引も行われた。けれど足かけ三年にもなると、さすがの信玄も困惑した。三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない彼も、
「いかにせん乎《か》」
 と、日々屈託顔《くつたくがお》に見えた。
 由来、甲信上毛は、塩ばかりでなく海産物はすべて、北条、今川家の領に依存していたので、この苦痛は徹底的にこたえた。領民の皮膚は目に見えて青味を帯び、病人は急に殖《ふ》え出した。わけても、味噌、漬物が喰えないことは、百姓の生活を致命的におびやかした。従って、農産も減退するし士気はふるわず、さしもの甲府も自滅のほかなかった。
「今ではありませんか。一挙、甲府を撃砕するのは」
 うわさは頓《とみ》に高い。越後表でも謙信にたいしてしきりにすすめる武将もあった。が、謙信はその期間、敢て、甲信に兵馬をうごかさなかった。
 のみならず今川家から、この塩止政策の同盟を求めて来た使者に対しても、
「当家においては、疾《と》くに当家として、策も立ておれば、御喙容《ごかいよう》には及ばぬ」
 と、追い返してしまった。
 しかし三河の徳川家康とは、この年、対甲同盟をむすび、いよいよ信玄に対しては、間隙《かんげき》をゆるさなかった。
 苦しまぎれか、信玄は依然、諸州へ兵を出した。専ら塩を獲《え》ようとしたのであろう。上州の上杉領へも突出して来た。捨ておけじと、謙信は直ちに三国山脈を越えてこれを撃退し、彼が、甲府へ退《ひ》くと、自分も越後へ帰国した。
 帰るとまもなく、謙信は、粮倉《ろうそう》奉行の蔵田五郎左衛門を呼び、
「このたびの出征に、甲信地方の領民の生活を聞き及ぶに、うわさ以上の塩切れに、百姓共の苦悩は言語に絶しているらしい。——早々、わが北海の塩を、水陸より甲信地方へ転漕してつかわせ」
 と、命じた。
 五郎左衛門は耳を疑って、
「敵国へですか?」
 と、怪しみながら念を押した。——そうだ、と謙信は大きく頷いて見せ、且《か》つ、注意を加えた。
「もとより城中の塩倉を開けるわけにはゆかぬ。城下の商賈《しようこ》に令を出して、甲信側の塩商人へどしどし塩を売ってやれ、と奨《すす》めればよいのだ。ただし先の欠乏につけこんで、暴利をむさぼる惧《おそ》れがある。価格はすべて越後値段に限ることを厳命し、平価をこえることなきように致せ」
 
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