二
龍太郎《りゆうたろう》が、そこを立ちさろうとすると、なかの男は、跫音《あしおと》を耳にとめたか、にわかに、はねおきて、壁《かべ》に立てかけてあった得物《えもの》をとるやいなや、ばらッと、雨戸のそとへかけおりた。
「待てッ、待て、待てッ!」
あまりその声のするどさに、龍太郎も、ギョッとしてふりかえった。すると——そのせつな、真眉間《まみけん》へむかって、ぶんとうなってきたするどい光りものに——はッとおどろいて身をしずめながら、片手にそれをまきこんで袖《そで》の下へだきしめてしまった。見ればそれは朱柄《あかえ》の槍《やり》であった。
「こりゃ、なんだって、拙者《せつしや》の不意をつくか」
「えい、吐《ぬ》かすな、おれのお母《ふくろ》をころしたのは、おまえだろう。天にも地にも、たったひとりのお母《ふくろ》さまのかたきだ。どうするかおぼえていろ!」
「勘ちがいするな、さようなおぼえはないぞ」
「だまれ、だまれッ、めったに人のこないこの島に、なんの用があって、うろついていた。今しがた、宿《しゆく》から帰ってみれば、お母《ふくろ》さまはズタ斬り、家のなかは乱暴|狼藉《ろうぜき》、あやしいやつは、汝《なんじ》よりほかにないわッ」
目に、いっぱい溜《た》め涙《なみだ》をひからせている。憤怒《ふんぬ》のまなじりをつりあげて、|いッかな《ヽヽヽヽ》きかないのだ。この若者は浜松の町で、稀代《きたい》な槍法《そうほう》をみせた鎧売《よろいう》りの男で——いまは、この島に落ちぶれているが、もとは武家生まれの、巽小文治《たつみこぶんじ》という者であった。
「うろたえ言《ごと》をもうすな、だれが、恨みもないきさまの老母などを、殺すものか」
「いや、なんといおうが、おれの目にかかったからにはのがすものか」
「うぬ! 血まよって、後悔《こうかい》いたすなよ」
「なにを、この朱柄《あかえ》の槍《やり》でただひと突き、おふくろさまへの手向《たむ》けにしてくれる。覚悟《かくご》をしろ」
「えい! 聞きわけのないやつだ」
と、龍太郎《りゆうたろう》もむッとして、槍《やり》のケラ首が折れるばかりにひッたくると、小文治《こぶんじ》も、金剛力《こんごうりき》をしぼって、ひきもどそうとした。
「やッ——」とその機をねらった龍太郎が、ふいに穂先《ほさき》をつッ放すと、力負けした小文治は、槍《やり》をつかんだままタタタタタと、一、二|間《けん》もうしろへよろけていった。——そこを、
「おお——ッ」ととびかかった龍太郎の抜き討ちこそ、木隠流《こがくれりゆう》のとくいとする、戒刀《かいとう》のはやわざであった。
いつか、裾野《すその》の文殊閣《もんじゆかく》でおちあった加賀見忍剣《かがみにんけん》も、この戒刀《かいとう》のはげしさには膏汗《あぶらあせ》をしぼられたものだった。ましてや、若年《じやくねん》な巽小文治《たつみこぶんじ》は、必然、まッ二つか、袈裟《けさ》がけか? どっちにしても、助かりうべき命ではない。
と見えたが——意外である! 龍太郎《りゆうたろう》の刀は、サッと空《くう》を斬って、そのとたんに槍《やり》の石突きがトンと大地をついたかと思うと、小文治《こぶんじ》の体は、五、六尺もたかく宙《ちゆう》におどって、龍太郎の頭の上を、とびこえてしまった。
この手練《しゆれん》——かれはただ平凡な槍使《やりつか》いではなかった。
龍太郎は、とっさに、眸《ひとみ》を抜かれたような気持がした。すぐ踏《ふ》みとまって、太刀《たち》を持ちなおすと、すでにかまえなおした小文治は槍を中段ににぎって、龍太郎の鳩尾《みぞおち》へピタリと穂先《ほさき》をむけてきた。
かつて一ども、いまのようにあざやかに、敵にかわされたためしのない龍太郎は、このかまえを見るにおよんで、いよいよ要心《ようじん》に要心をくわえながら、下段《げだん》の戒刀《かいとう》をきわめてしぜんに、頭のうえへ持っていった。
玄妙《げんみよう》きわまる槍と、精妙無比《せいみようむひ》な太刀はここにたがいの呼吸をはかり、たがいに、兎《う》の毛《け》のすきをねらい合って一瞬一瞬、にじりよった。
|天※[#「(犬/犬+犬)+風」]《てんぴよう》一陣! ものすごい殺気が、みるまにふたりのあいだにみなぎってきた。ああ龍虎《りゆうこ》たおれるものはいずれであろうか。